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ひらつか歴史紀行 第30回

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ひらつか歴史紀行

 



第30回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その10(番積み争論からみる廻船問屋と川船持ちとの関係) (2011年9月号)


 前回は須賀・柳島の廻船問屋たちの運んだ積荷についてみてきました。今回は廻船問屋と川船持ちとの関係を考えてみたいと思います。このことは相模川でつながる経済圏を考えることにもなります。
 天明元年(1781)6月、須賀湊の廻船問屋一同が「近年荷物払底」による困窮により、「船渡世相続き難く難義至極」として、今後は荷物を「番積み」にすると荷主たちに通告しました。「荷物払底」とあるように、この時期、廻船業は不況下にあったようです。「番積み」とは船に積み込む荷物を廻船問屋仲間で順番に割り当てることで、これにより仕事がなく倒産する廻船問屋の発生を防ぐ意味がありました。そのほか通告にはこれまで上流から下って来る船乗り・筏乗りへ廻船問屋が与えていた扶持米などの廃止も盛り込まれていました(個人蔵文書)。
 これに対して太井村六郎兵衛・磯部村新兵衛・厚木村藤助は8月、川船持ち惣代として須賀の廻船問屋を代官江川太郎左衛門に訴えました。訴状によれば(1)従来、荷主は須賀村の任意の廻船問屋と交渉して丈夫な船に荷物を積み入れてきたが、番積みになると老朽船に荷物を積まれ不安である。(2)これまでは須賀村の任意の廻船問屋と交渉して材木を伐り出す山の「仕入金」を借り入れ、材木を伐り出して荷物を川下げしてきたが、番積みになっては「仕入金」の借入にさしつかえ、出荷高も減少する。(3)従来、川船乗りが須賀浦へ荷物を積み下げた時、任意の廻船問屋方に雨天時は無償で逗留し、日帰りの時は扶持米3升を受け取って帰っていたが、それを廃止されたら川船乗りはいなくなる、というものでした(『茅ヶ崎市史』1巻No86)。
 これに対して廻船問屋は年貢米や御用木は従来も番積みをしてきたこと、近年廻船問屋は困窮で倒産が多く、馬入の渡しの船役も勤められないこと、番積みの方が効率よく荷物が輸送できることを主張して反論しましたが、9月に和解が成立しました。その内容は①川船持ちは任意の廻船問屋に荷物を送ること、ただ行司の取計らいで居合わせた船に載せることがある。(2)川船乗りはこれまで廻船問屋に逗留していたが、以後は別宿とし、逗留の翌日が雨天であれば従来より減額するが扶持米などを支給する、というものでした(『茅ヶ崎市史』1巻No87)。
 さて、この争論は和解後も再燃し、争論の終結は天明3年7月になりますが、その経緯は省略し、ここではこの争論からうかがえる廻船問屋と川船持ちたちの興味深い関係を指摘したいと思います。それは須賀の廻船問屋が上流の荷主らに稼ぎ山の「仕入金」を融通していたということです。つまり、荷主は須賀村の廻船問屋から資金提供を受けて材木伐採などをおこなっており、廻船問屋はたんに川下げされた荷物を江戸やその他へ運んだだけでなく、上流の山稼ぎ―杣や木挽きなどの生業を資金的に支えていたということが指摘できます。廻船問屋は上流の荷主に資金提供して荷主が伐採した材木などを自分の船に積んで江戸などへ送っていました。その資金は「無利息にて借り請け」(個人蔵文書)とされ、荷主たちにとっては非常に有利な条件での借入でした。そのため番積みになると、廻船問屋は荷主に対して順番であたる分の荷高に応じた資金提供しかできなくなり、これが上流の山間地域の経済を停滞させるとして荷主たちは反対したのでした。
 上流の津久井の山間地域の経済を資金的に支えていたもののひとつに須賀村の廻船問屋があり、津久井地域と須賀村は相模川を通じた金融経済圏であったといえます。相模川は金の道でもあったのです。

  

【参考文献】
 2009年度秋期特別展図録「山と海を結ぶ道-相模川・相模湾の水運」

 西川武臣「近世の相模川・相模湾水運―津久井・須賀・柳島・神奈川―」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』33号 2010年)
 早田旅人「近世相模川・相模湾水運における須賀村の位置」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』36号 2013年)

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