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ひらつか歴史紀行




第4回 平塚宿の施設 旅籠屋 (2009年7月号)


  前回は平塚宿の本陣・
脇本陣をみてきました。今回は旅籠屋(はたごや)をみていきましょう。
  旅籠屋とは江戸時代に宿駅で本陣・脇本陣とは別に一般の旅客を宿泊させる食事付きの旅館のことをいいます。
  平塚宿の旅籠屋は天保14年(1843)には54軒ありました(『東海道宿村大概帳』近世交通資料集4)。そのうち、「大旅籠」が2軒、「中旅籠」が29軒、「小旅籠」が23軒でした。旅籠の規模は間口によって決められたといわれ、三島宿の場合、表間口5間以上が大旅籠、中旅籠が4間前後、小旅籠が3間以下に分類できるといいます。『宿村大概帳』でみると、東海道各宿場の旅籠屋数は平均55軒で、そのうち大旅籠が9軒弱、中旅籠が18軒弱、小旅籠が28軒強だったといいます(児玉幸多編『日本史小百科 宿場』)。平塚宿は旅籠屋数は平均的ですが、大旅籠が少なく、比較的中旅籠が多い宿場だったといえそうです。
  さて、それでは平塚宿の旅籠屋の評判はどうだったでしょうか。藤沢市史料集31『旅人がみた藤沢』(1)には江戸時代に東海道を旅した人の日記の藤沢周辺の記事が収録され、平塚宿についての感想もいくつか記されています。ここから平塚の旅籠屋の評判をうかがってみましょう。
 まずは、出羽国飽海郡松山町(山形県酒田市)の商人、能登屋久蔵が全国を旅したときの日記です。彼は文政2年(1819)閏4月21日に平塚を訪れ、「宿茶屋よろシ」と評価しました。
 次は同じく出羽国田川郡酒田(山形県酒田市)の石塚長三郎が伊勢・京・金毘羅などを旅した日記ですが、文政10年(1827)2月12日、平塚を訪れ、「宿屋ハロシ(わろし)」と記しています。
 さらに、江戸から箱根・熱海へ旅し、天保10年(1839)4月15日に平塚を訪れた武士、原正興は「家ゐ立こめたれども、よき宿も見えず」と評価しました。
 そして、奥州から伊勢参宮した藤原某氏も、その帰り道の弘化2年(1845)6月19日に平塚を訪れ、「わるし、何も書事(なしカ)」と記しています。
 以上、わずか4例ですが、平塚を旅した人の感想をひろい出すことができました。残念ながら4例中3例が平塚宿・旅籠屋について低い評価をしています。まだまだ事例が少ないので、今後、さらなる事例を発掘収集し、そのうえで総体的な評価をするべきですが、旅人の平塚宿の評価が低いとするなら、それはやはり、平塚宿の立地に関係があるのではないでしょうか。第1回で述べましたように、東海道を行く旅人は平塚を素通りするか、休憩で利用する人が多かったようです。このことが平塚宿の旅籠屋の経営やサービスに何らかの悪影響を及ぼしたのかもしれません。江戸時代の平塚を詠んだ川柳に「平塚の宿は毒にも薬にも」(江戸川柳研究会編『江戸川柳東海道の旅』至文堂)という句がありますが、平塚はあまり面白みのない宿場というイメージがあったようです。いずれにせよ今後の研究が必要とされます。
 ただ、もちろん、能登屋久蔵の評価もあったように平塚の旅籠屋が
すべて悪い旅館だったわけではありません。

文久2年(1862)「浪花講諸国定宿帳」(平塚市博物館寄託)

 江戸時代、人々の旅行が増えるにつれ悪質な旅籠屋が目立ってくる一方で、安心で信頼できる良質な旅籠屋が望まれるようになりました。そこで、文化元年(1804)、大坂の松屋源助を発起人として旅籠屋組合である「浪花講」が成立しました。浪花講は優良な旅籠屋を指定し、加盟旅籠には看板を交付、諸国の加盟旅籠を収録した「浪花講諸国定宿帳」も出版されました。
 その「浪花講諸国定宿帳」に平塚宿の旅籠屋の名前がみられます。文久2年(1862)の「浪花講諸国定宿帳」の平塚宿の項をみると「米屋又兵衛」の名前がみえます。
 これを同年の「軒別畳数坪数書上帳」(『平塚市史』4 資料編近世3)で確認すると、現在の錦町付近にあった間口5間半、建坪57坪2分5厘の二階建ての旅籠屋であったことがわかります。

【参考文献】
児玉幸多編『日本史小百科 宿場』
藤沢市史料集31『旅人がみた藤沢』(1)
平成17年度ふるさと歴史シンポジウム報告書『江戸の娯楽と交流の道‐厚木道・大山道・中原道‐』(ふるさと歴史シンポジウム実行委員会)

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