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第3回 平塚宿の施設 本陣・脇本陣 (2009年6月号)
前回は平塚宿の成立事情を考えてみました。今回からは平塚宿の内の諸施設についてみていきましょう。まずは、本陣、脇本陣です。
本陣とは宿場において参勤交代の大名や、公家、公用の幕府役人などが宿泊した大旅館です。脇本陣とは本陣の補助的役割を担い、本陣だけで宿泊の需要に応じなけれない場合に使用される旅館です。本陣は一般旅行客の宿泊は厳しく制限されていましたが、脇本陣は公用宿泊者がいなければ一般客の利用も許可されていました。
本陣の発端は、徳川家康の関東入国以来、諸大名が東海道を通行する際に家が広く田畑山林を多く持ち、下男下女を多数召し抱えている者のところに休泊したことにあります。その後、寛永11年(1634)に3代将軍徳川家光の上洛に際して宿駅の大名宿の亭主が本陣役に任命され、翌年の参勤交代制の実施以降、一般化したといわれています。
本陣加藤七郎兵衛宅絵図 | 脇本陣山本安兵衛宅絵図 |
さて、平塚宿には本陣・脇本陣がそれぞれ一軒ずつありました。現在、平塚市博物館には文久2年(1862)に作成の本陣加藤七郎兵衛宅と脇本陣山本安兵衛宅の絵図面が展示されています。これによると、加藤本陣は間口16間半(29.7m)、奥行38間(68.4m)で右に表門に続く広い玄関があり、荷置場である広い土間や板の間が設けられていました。山本脇本陣は間口13間(23.4m)、奥行40間(72m)で左に門と玄関があり、規模と造りは本陣に及ばないまでも一般の旅籠屋とは異なる格式をもっていました。
この加藤本陣は東仲町北側(平塚市平塚2丁目31)に、山本脇本陣は二拾四軒町北側(平塚市平塚2丁目1)に位置し、現在、それぞれの場所に史跡を示す標柱、説明板があります。
しかし、あまり知られていませんが、本陣・脇本陣は江戸時代を通じて同じ規模、家で勤めたわけではありません。
たとえば、本陣は天保14年(1843)の「平塚宿大概帳」では建坪163坪となっていましたが、文久2年の絵図では建坪は111坪となっています。
また、脇本陣は寛政年間(1789縲鰀1801)の「東海道分間延絵図」では「西仲町中程北側」に所在するとあり、一般的に知られている二拾四軒町の山本脇本陣とは別の位置にあったことがわかります。この西仲町の脇本陣は天保6年の「地誌御調言上帳下」(平塚市博物館蔵)では「六郎兵衛」とあり、別の史料から原田六郎兵衛という人物であったことがわかります。この原田脇本陣の規模は「地誌御調言上帳下」によると建坪49坪とされていますが、「手狭困窮」とも記されています。そして8年後の「平塚宿大概帳」では脇本陣が二拾四軒町の建坪75坪、門構・玄関付の山本脇本陣に代わっています。ここから、脇本陣は寛政年中から天保6年までは原田六郎兵衛が勤め、天保14年以降、山本安兵衛が勤めるようになったことがわかります。そして、その交代の要因は原田脇本陣の「手狭困窮」でした。
参考文献
東海道宿駅制度400年記念巡回展図録『二宮・大磯・平塚を結ぶ道 東海道』
平塚市博物館 254-0041 神奈川県 平塚市
浅間町12-41
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