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第5回 平塚宿の施設 問屋場 (2009年8月号)
前回は平塚宿の旅籠屋(はたごや)をみました。今回は問屋場(といやば)をみていきましょう。
問屋場とは街道を運ばれる荷物や書状の継ぎ立てや、参勤交代などの大通行の際に周辺の村々から動員される人足・馬の指揮などをおこなう場所で、宿場の運営上もっとも重要な施設です。
平塚宿の問屋場は二十四軒町(現平塚1)に1か所、西仲町(現平塚4)に1か所の2か所あり、業務を10日交替で担当しました。問屋場に詰めている役人には問屋(宿業務の責任者)・年寄(問屋の補佐役)・帳付(人馬の出入を記帳)・人足指(にんそくさし)(人足の差配)・馬指(うまさし)(馬の差配)がいました。天保14年(1843)の平塚宿には問屋3人、年寄6人、帳付11人、人足指6人、馬指6人がいました(『東海道宿村大概帳』近世交通資料集4)。
さて、宿は公用で必要とする人馬を常備、提供する義務を負いましたが、交通が激しく宿の人馬で賄いきれないときは近隣の村々から人馬が動員されました。このような村々を助郷(すけごう)といいます。そして、助郷村々に人馬動員を要請するのが宿の問屋場でした。そのため、助郷に人馬動員させたい宿・問屋場と人馬動員の負担を回避したい助郷村々との間にはしばしば対立、争いが生じました。
文政4年(1821)「平塚宿と定助郷四十三か村人馬割不正訴訟済口証文」 (平塚市博物館寄託) |
文政4年(1821)、平塚宿助郷43か村が平塚宿問屋らを相手に裁判をおこしました。助郷村々は問屋らが平塚宿常備の人馬を使い切らないうちに助郷人馬を動員し、助郷に多大の負担を強いていると訴えたのでした。背景には公用交通量の増加により宿場の負担が増大し、宿が疲弊していたこと、そして、宿はこの負担を助郷に転嫁したため助郷村々も疲弊したことがあげられます。
この裁判は同年9月に和解となり、和解内容を記した証文が作成されました(「平塚宿と定助郷四十三か村人馬割不正訴訟済口証文」『平塚市史』4 近世資料編3)。それによると、平塚宿常備の人馬を助郷の人馬より先に使用すること、助郷惣代が毎日問屋場に立ち会って必要な人馬を確認し、助郷への過剰な人馬要請をしないことなど、助郷村々への不正な人馬動員を抑止する決まりが定められています。しかし、一方で、以前は賃銭が支払われない人馬は宿が継ぎ送り、賃銭が支払われる人馬は助郷が優先的に継ぎ送ることになっていたのを、以後は賃銭の有無にかかわらず、宿の人馬を先に使用するとの決まりも定められました。これは無賃人馬を強いられる宿の厳しい負担が助郷への不正な人馬要請の一因であるとの認識のもと、助郷村々が譲歩して、宿も賃銭が支払われる人馬を継ぎ送れるようにすることで宿の負担を緩和したものと考えられます。
宿と助郷村々はこのような争いや取決めを重ねることによって、自分たちの手で地域の利害を調整する経験を積んでいったといえます。
【参考文献】
2004年度春期特別展図録「近世平塚への招待 館蔵資料でみる23題」
東海道宿駅制度400年記念巡回展図録『二宮・大磯・平塚を結ぶ道 東海道』
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