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鎌倉殿と平塚の七人

鎌倉殿と平塚の七人

リーフレット「鎌倉殿と平塚の七人」

「鎌倉殿と平塚の七人」と、その七人と所縁のある市内の史跡を紹介するリーフレットが完成しました。
当館を始め、平塚市中央図書館、市内各公民館、(一社)平塚市観光協会で配布しています。
pdfで閲覧も可能です。詳細は平塚市ウェブページの「ふるさとの歴史」鎌倉殿と平塚の七人のページをご覧ください。
七人のご紹介

真田与一義忠


三浦氏一族の岡崎義実の嫡男。治承4年、1180年、平氏打倒を目指して旗揚げした源頼朝に父義実らとともに石橋山の戦いに挑みますが大敗。与一も俣野景久を組み伏せたものの、脇差が抜けず駆け付けた長尾新六に討ちとられてしまいます。与一の死を悼んだ頼朝はその後石橋山を通るたびに涙を流したそうです。
史跡:与一堂、真田城跡(平塚市真田1丁目14-1) 天徳寺境内の与一堂は「真田与一」を祀る。北金目台地の北端、天徳寺を中心とする台地上にある真田城は、これまでの発掘調査から大規模な掘割が見つかっています。
最寄りバス停:「真田神社前」より徒歩5分

岡崎四郎義実


三浦義継の四男、三浦義澄の叔父。頼朝にとっての最初の戦い、伊豆の山木兼隆襲撃から参戦。石橋山の戦いでは息子与一義忠を失います。北条時政親子と共に真鶴から船で海上に脱出し、翌日土肥実平と共に脱出した頼朝を安房国で迎えました。高齢であったためか義実が従軍した記録は奥州藤原氏討伐のみで、常に頼朝のそば近くで急拡大する御家人衆をまとめていたものと思われます。晩年は悠々自適というわけにはいかず、正治二年(1200年)、北条政子に窮状を訴えて所領を懇願しています。
史跡:岡崎義実公墓(平塚市岡崎5732付近)
最寄りバス停:「ふじみ野」から徒歩15分

土屋三郎宗遠


相模国南西部を地盤とする武士団「中村党」の一族。兄は土肥次郎実平、姉妹は岡崎四郎義実に嫁して与一義忠と次郎義清の兄弟を生みます。次郎は宗遠の養子となり土屋次郎義清を名乗ります。宗遠と義清は石橋山の合戦にも名を連ね、挙兵当初から頼朝を支えます。平家の軍勢を駿河国で迎え撃てとの指令を伝えるため頼朝から甲斐国への使いを命じられます。この使いは功を奏し、甲斐の軍勢は駿河の平家軍を撃破します。三代将軍源実朝が編纂した「金槐和歌集」の中に「相州の土屋といふ所に歳九十にあまれる朽法師あり おのつからきたり昔語りなどせし云々」とあり、昔語りに実朝を訪ねてきた老人は晩年の宗遠だったのかもしれません。

豊田次郎景俊


豊田景俊は、桓武平氏の流れをくむ武士団「鎌倉党」の一族です。世に知られる景俊の兄弟は4人で石橋山の戦いでは、兄の懐島景義とともに頼朝方として戦い、弟の大庭影親と俣野景久は平家方として戦います。本家は相模の大荘園大庭御厨を管理する大庭氏です。華々しい話が伝わっていない景俊ですが、一つの伝説が伝わっています。吉沢にある夜泣き石に伝わる話です。
史跡:大庭塚(平塚市豊田本郷1669付近)父大庭景宗の墓と伝えられる塚。
最寄りバス停:「東橋」から徒歩5分

虎女


曽我兄弟の仇討で知られる曽我物語で、兄の十郎祐成の思い人として登場する虎女ですが、吾妻鏡にも記録されていますから、実在の人物とみていいでしょう。遊女とは今ですと女性アイドルといったところでしょうか。建久四年(1193年)富士の裾野で行われていた巻狩りの最中に、父河津祐泰の仇工藤祐経を討ち本懐を遂げた兄弟の菩提を弔うため出家し住んだ庵や祐成との文を焼いた文塚など、当代随一の美女と謳われた虎女の数々の伝説が残っています。
史跡:虎女住庵跡(平塚市山下398付近)
最寄りバス停:「下万田」から徒歩3分

 

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