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ひらつか歴史紀行 |
第35回 金目川-水とくらしの歴史 その4(金目川の流路の変遷) (2012年2月号)
前回は、近世金目川の利水秩序についてみてきました。
今回は近世における金目川の流路の変遷についてみていきたいと思います。現在の金目川の流路は自然の営為によるものもありますが、近世に人為的に作りだされた部分があります。ここではそのなかで大きなものを三つ、順にみていきたいと思います。
宝永3年(1706)の筋替え
元禄16年(1703)11月、南関東で大地震が発生し、金目川周辺でも家屋や田畑の被害が出て、金目川も地震により川底が高くなり、少しの水で堤防が決壊するようになり、洪水が頻発しました。そのため、金目川通り二十八ヶ村組合では、幕府に堤防の修復工事と金目川の浚渫工事を願い出ました(『平塚市史』4 No.43)。これを受け、幕府は代官による見分を実施し、宝永3年(1706)2月、浚渫工事ではなく、川幅拡張と流路変更の工事(筋替え)を実施しました(『平塚市史』4 No.48)。これにより、川筋は入野村・長持村・友牛村・南原村にかけて長さ830間(約1500m)の流路に変えられました【図1】。幕府は一時的な堤防の修復工事や浚渫ではなく、川幅拡張と筋替え工事による抜本的な解決を考えたと思われます。
宝永6年(1709)の筋替え
宝永4年(1707)11月23日、富士山が噴火し、金目川付近は「川通り、田畑・家居まで砂押し上げ、迷惑仕り候」と甚大な被害を受けました。金目川は富士噴火による降り砂で埋もれ、川底が高くなり、村々は幕府に浚渫工事を願い出ました。これにより幕府は翌宝永5年4月に岡山藩に命じて、浚渫工事が実施されました(『平塚市史』4 No.46・48)。しかし、翌宝永6年、再び川が埋もれたためたため、幕府は浜松藩に命じて8月から再び工事を始めました。ただ、この時は浚渫だけでなく、下流で湾曲していた花水川を直線化する筋替え工事も実施されました【図2】。現在、地図をみると国道1号線の大磯町の境が花水川を超えて平塚市側に入りこんでいるように見えますが、これは旧河道が両市町の境界になっているためです。
享保6年(1721)の筋替え
宝永富士噴火の影響はその後も続きました。金目川・鈴川・玉川(現渋田川)の三川合流地点では、降り砂が溜まったことで、正徳2年(1712)~享保6年(1721)の10年間、入野村・長持村・豊田本郷村・豊田小嶺村・豊田宮下村・平等寺村・打間木村の7か村の田畑や家屋が水没し、船で通行するような状態になっていました(『平塚市史』2 No.73)。そこで、享保6年、三川合流地点から南原村内に長さ550間(約990m)の「水抜き仮川」を掘り、水を抜く工事が実施されました。工事は水を抜いたうえで「水抜き仮川」を埋め戻す予定でしたが、「水抜き仮川」を掘ったところで浚渫費用が1万両もかかることが見積もられ、さらに数年で川上に残る砂により再び川が埋まることが判明したため、翌年、この「仮川」を拡幅し、長さ570間の「永川」とすることになりました(『平塚市史』4 No.49・『大野誌』137頁)。これにより、金目川と鈴川・玉川(現渋田川)の合流点を南下させる新たな川筋が生まれました【図3】。
以上の三つの大きな筋替え工事により、ほぼ、現在の金目川(花水川)の流路が生まれました。普段、当り前と思っていた金目川の流れですが、それは治水に格闘した近世の人々により作られたものだったのです。
金目川(花水川)の筋替え工事 赤線が工事により生まれた新しい流路(現流路) |
【参考文献】
第100回記念特別展図録「金目川の博物誌」平塚市博物館 2008年
早田旅人「近世中規模河川における治水秩序とその変容」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』32号 2009年)
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