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第33回 金目川-水とくらしの歴史 その2(金目川通り28ヶ村組合) (2011年12月号)


 前回は、近世金目川の治水事業の始まりともいえる「大堤」についてみてきました。
 今回は大堤を含め、金目川の堤防の維持・修復など治水のための村々の組合である金目川通り28か村組合の結成についてみていきたいと思います。
 近世前期の金目川の治水の実態は関係史料が少なく、詳しいことはわかりません。寛永7年(1630)8月15日に洪水が発生した際は、幕府代官服部惣左衛門の見分で幕領・私領に関わらず「郡役」が命じられ、金目川の堤防の修復が実施されたといいます(『平塚市史』4 NO.48)。「郡役」とは中郡(現在の平塚市・秦野市・大磯町・二宮町付近)の住民に領主の相違、洪水被害・水の利用の有無に関わらず人足を動員させるもので、堤防修復の負担を地域で広く薄く担わせることができます。ただ、金目川の洪水被害のない村々や金目川の水を利用しない村々、およびそれらの領主は、自己の利害に直接関わらない堤防修復の負担を忌避したようで、寛文6年(1666)の大堤修復の際は、幕府は幕府負担分以外の修復費用を金目川から取水する村々に求めており(『平塚市史』4 NO.48)、堤防修復にかかる出費は金目川から取水する村々が負担するという「受益者負担」とでもいえる論理で、負担範囲が限られていくようになりました。

金目川通り28か村組合の村々
金目川通り28か村組合の村々

 こうしたなか、金目川通り28か村組合の結成の契機になる事件が起きます。貞享元年(1684)春、大堤から飯島・寺田縄堤にいたる金目川の堤防が破損し、幕府は金目川から取水している村々に人足を出すように命じました。この時動員を命じられた村々は28か村でしたが、同年2月、28か村のうち鈴川を隔てた下島村・打間木村・城所村・小鍋島村の4か村が動員を拒否し、残り24か村と裁判になりました。4か村が人足動員を拒否したのは「自分の村々田地高く候て、金目川の水流れ来らず」という理由でした。つまり、四か村は土地が高いため金目川の水を利用しておらず、そのため金目川堤防修復に人足を出す義務はないとの主張です。そこで、幕府は検使を派遣して測量調査をしたところ、「四か村は地低にて金目川流れ来るべき義、たしかに相見え候」ことが判明しました。金目川の水が鈴川を経て4か村へ流入しているということがわかったのです。この結果を受け、同年8月、4か村に他村と同様に人足を勤めることを命じ、4か村の名主を禁獄に処する判決が下りました(『平塚市史』4 NO.39)。そして、金目川堤防は「弐拾八ヶ村御普請所に相極まり」(『平塚市史』4 NO.48)、金目川通り28か村組合が成立しました。金目川の水を取水する村が堤防の修復の義務を負い、その村が28か村と決まり、以後、「御修復の儀は年々廿八ヶ村にて相勤め候」(『平塚市史』4 NO.43)といわれるように、江戸時代を通じて金目川通りの堤防修復はこの枠組が前提となりました。

  

【参考文献】
 「家と村-金目川通り北金目村」平塚市博物館 1977年
 第100回記念特別展図録「金目川の博物誌」平塚市博物館 2008年

 早田旅人「近世中規模河川における治水秩序とその変容」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』32号 2009年)
 

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