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第34回 金目川-水とくらしの歴史 その3(金目川の利水秩序) (2012年1月号)


金目川通り堰位置図
金目川通り堰位置図
 金目川から取水する堰の位置が示されている。享保6年(1721)以降作成の絵図(当館寄託)

 前回は、近世金目川の治水秩序ともいえる金目川通り28か村組合についてみてきました。
 今回は治水ではなく、田に水を引く利水秩序の成立についてみていきたいと思います。
 金目川通りの村々で水の利用をめぐる取り決めができるきっかけは、宝永元年(1704)に北金目村が大堤圦樋(おおつつみいりひ)の修復費用の支出を片岡・南金目・矢崎・西海地・大畑の5か村へ求めたことで起きた争論でした。圦樋(いりひ)とは堰から引き入れた水を堤防などの下に通して田や用水路へ送る管で、北金目村がこの5か村に大堤圦樋の修復費用の支出を求めたのは、これらの村がこの圦樋を通って引き入れた水を利用していたからです。しかし、5か村は以前から費用を支出したことはないとして拒否したため、北金目村と5か村との間で争論になりました。
 争論の発生により幕府代官平岡三郎右衛門が見分に訪れ、平岡は大堤圦樋から引水された水が流れる堀を北金目村で堰き止めるよう指示しました。すると、5か村へ水が行かなくなり、5ヶ村は近隣の村に仲裁を頼んで、堰き止めを撤去してもらうように願い出ました。これにより大堤圦樋から引かれた水が5か村の田を潤していたことがわかり、宝永4年6月、各村は引水される田の面積に応じて圦樋の修復費用や人足を負担することを取り決め、和解しました(『平塚市史』4 NO.44)。
 そして、この争論の解決を受けて翌7月、金目川通りの17の堰から取水する21か村で「金目川用水論和談取替証文」が作成されました(『平塚市史』4NO. 45)。これは各堰から取水する村と取水面積・取水量を取り決めたもので、ここに金目川通りの利水秩序が明確となりました。
 なぜ、大堤圦樋にかかわる争論をきっかけに他の16の堰についても取決めがなされたのかは不明です。ただ、元禄16年(1703)の地震や、それにともなう川筋の変更による水流の変化を踏まえて用水秩序を確認、確立させる必要があったのかもしれません。そして、この取決めは以後、明治15年(1882)まで変化はありませんでした。そのため、この宝永4年7月の取決めをもって近世金目川の利水秩序の成立ということができると思います。


  

【参考文献】
 「家と村-金目川通り北金目村」平塚市博物館 1977年
 第100回記念特別展図録「金目川の博物誌」平塚市博物館 2008年

 早田旅人「近世中規模河川における治水秩序とその変容」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』32号 2009年)
 

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