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第32回 金目川-水とくらしの歴史 その1(大堤) (2011年11月号)


 前回までは、相模川の水運の歴史を見てきました。今回から、県内屈指の農業のまち平塚を特徴づける金目川と人々とのかかわりの歴史を見ていきたいと思います。
 金目川は秦野市の蓑毛の春岳山を水源とする延長21キロメートルの河川で、秦野市から平塚市西部を流れ、平塚市上平塚で渋田川と合流してから下流は花水川と呼ばれます。金目川は河床が高いため、取水がしやすく、現在でも平塚市域の金目川には12ヶ所の取水堰が設けられ、豊かな水田を潤しています。しかし、その反面、洪水を起こしやすく、江戸時代を通じて記録に残るだけで10年に一度の割合で洪水が発生しました。金目川は豊かな水田をささえる恵みの川でありましたが、その歴史は水とのたたかいの歴史でもありました。

 こうした洪水からくらしを守るため、金目川には堤防などの水防施設が設けられましたが、そのなかで最も大規模で被害も多く、有名なのが「大堤」(平塚市南金目)です。
 この「大堤」の由来は徳川家康と深く関わっています。天正18年(1590)、徳川家康は小田原北条氏の滅亡後、関東に領国を与えられ居城を江戸に移します。その後、家康は領内の視察や京都との往復の途中などで鷹狩りを行いますが、平塚市域にも鷹狩りに訪れていました。当初、家康は平塚市域での鷹狩りの際は、豊田村の清雲寺(平塚市豊田本郷)を休憩地としていました。そのため清雲寺は「御茶屋寺」とも呼ばれますが、文禄4年(1595)に洪水が発生し、清雲寺が被害を受けたことで、翌慶長元年、洪水被害を避けた高台の中原の地(平塚市御殿)に中原御殿を造営し、以後、家康が当地を鷹狩りに訪れた際はこの中原御殿を利用しました。
 さて、この中原御殿造営のきっかけとなった洪水は、「村々百姓家居まで水たたえ」るほどの被害を出しました。その被害の様子は徳川家康の耳に入り、彼は被害を受けた村々の百姓を不憫に思い、中原御殿造営と同じ年に「金目村大堤ならびに川通り所々堤、御普請」を命じたといいます。このため、「大堤」は以後、「御所様御入国以来之堤」と呼ばれました(『平塚市史』4巻No48)。
今でも大堤は「御所様堤」とも呼ばれています。
 以上の「大堤」の由来は、平塚市域を豊かな農業地域にした金目川の堤防の整備が中原御殿の造営とセットで実施されたことを示しています。すなわち、現在の農業地域としての平塚市の地域的特質の形成に徳川家康の鷹狩りと中原御殿が大きく関わっていたと考えられるのです。そのため、後世の人々は金目川の堤防の象徴ともいえる「大堤」を「御所様堤」と呼び、その重要性を主張し続けることになります。近世の当地域の治水事業はこの慶長元年の「大堤」と各所の堤防の構築から始まりました。そして、現在の豊かな農業地域という平塚市の特徴がここにはじまるとともに、水との戦いの歴史も新たな幕を開けることになります。

北金目村絵図
近世の北金目村を描いた絵図。図面中央付近を横に走る太い線が「大堤」
現在の「大堤」付近
川が曲がる所に位置し、勢いのある水流がぶつかるため、しばしば決壊した。
  

【参考文献】
 「家と村-金目川通り北金目村」平塚市博物館 1977年
 第100回記念特別展図録「金目川の博物誌」平塚市博物館 2008年

 早田旅人「近世中規模河川における治水秩序とその変容」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』32号 2009年)
 

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