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第2回 平塚宿の成立事情 (2009年5月号)


  前回は平塚宿の規模などをみてきました。今回は平塚宿の成り立ちについて考えてみましょう。
  さて、前回、東海道の平塚宿と大磯宿の間は約3kmで東海道の宿間では3番目に短いと説明しました。東海道の宿間の平均距離は9.3kmなので、この距離の短さは異例といえます。なぜ、こんなに短いのか?正確なことはわかりませんが、これを考えることは平塚宿の成立事情を考えることにつながると思います。
 東海道の成立は慶長6年(1601)と述べましたが、それ以前に徳川政権が東海道沿いの宿に伝馬の継ぎ立てを命じた資料があります。
 一つは慶長元年(1596)の「徳川氏奉行衆連署伝馬手形」(『神奈川県史』資料編9所収)で、伊奈忠次ら徳川氏奉行衆が江戸から小田原までの伝馬の継ぎ立てを江戸・品川・神奈川・保土ヶ谷・藤沢・平塚・大磯・小田原の各宿へ命じたものです。ここでは元和9年(1623)に成立した川崎宿と慶長9年に成立した戸塚宿を除き、慶長6年の東海道成立時に宿駅に定められた宿は平塚も含めて全て記載されています。
 もう一つは翌慶長2年の伝馬手形(村上直「川崎宿の成立と伝馬役」『日本歴史』229号掲載)で、これも伊奈忠次らが三島から江戸までの伝馬の継ぎ立てを命じたもので、品川・神奈川・保土ヶ谷・藤沢・大磯・小田原・三島に命じられています。ここで、川崎・戸塚と元和4年(1618)に成立した箱根宿が記載されていないのはわかりますが、平塚宿も記載されていないことが注目されます。
 このことから、東海道成立以前の平塚は藤沢・大磯・小田原にくらべて伝馬の宿として固定化されていなかったことがうかがえます。つまり、平塚は中世からの交通集落ではありましたが、直近に大磯宿があることもあり、固定した宿とはされず必要に応じて伝馬を命じられたり、命じられなかったりしていたのではないかと考えられるのです。
 それでは、なぜ、平塚は直近に大磯があり、本来宿駅としての必要性が薄いと考えられるにもかかわらず東海道成立時に宿駅として確定、成立したのでしょうか。このことを知る資料はみつかりませんが、その理由として隣村の中原に慶長元年に設置された中原御殿の存在が考えられます。中原御殿は徳川家康が鷹狩りの際の旅宿とした御殿ですが、家康はここを頻繁に訪れ、民情視察や論功行賞を行ったりしています。後には中原代官陣屋も設置され、相模国中郡の支配の拠点にもなりました。大磯が直近にあるにもかかわらず平塚が宿として取り立てられた理由として、平塚が御殿に近く、中原御殿との中継基地として必要とされたからだと考えられないでしょうか。

<FONT size="-1">中原御殿跡を描いた「中原御宮記」(平塚市博物館蔵 平塚市指定文化財)</FONT>
中原御殿跡を描いた「中原御宮記」(天保10年(1839)9月)  平塚市博物館蔵 平塚市指定文化財

 

参考文献
東海道宿駅制度400年記念巡回展図録『二宮・大磯・平塚を結ぶ道 東海道』

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