村井弦斎(むらいげんさい)は、本名を村井寛(ゆたか)といい旧吉田藩家臣村井清の長男として、文久3年(1863)の12月18日に豊橋で生まれます。村井家は代々吉田藩の要職を勤める家柄でしたが、父清が34歳の折り、維新の動乱期に生じた失政から隠居を命じられ、弦斎は、慶応4年(明治元年1868)、僅か5歳で村井家を継ぎました。
明治5年3月、弦斎の学向き修業を理由に村井家は一家をあげて上京します。そして、下谷区北大門町に住み、弦斎は東京転住後の5月、小学第五校に入学することになります。翌6年1月、この小学校を退校。退校後、すぐにニコライ堂で有名な駿河台学校に入学して、ニコライ教師に就き露西亜語を学びます。その後、明治7年3月、前年に創立された東京外国語学校(現東京外国語大学)露語学に入学し、体調を崩し、明治14年に退学するまでの7年間、この外国語学校で学びます。
左の写真中央の人物は、明治7年、弦斎11歳の時のもので、外国語学校入学時の記念写真です。写真に写る両脇の人物は、外国語学校の同級生ですが、弦斎に比べ両人とも弦斎より7・8歳も年上であり、当時、外国語学校に入学した生徒の中では、弦斎は最も年少の学生であったことがわかります。弦斎は外国語学校在学中、特に明治11年(15歳の時)には貸費生(特待生)となり寄宿舎に入寮しました。そして、翌12年には露語学上等二級の首席となりますが、明治14年(18歳の時)2月、病に倒れ外国語学校を退学してしまいます。
退学の後、弦斎は露書の翻訳と独学を続け、明治15年6月からは、6ヶ月間、北海道の函館・江差を旅行し、その帰途、宮城、山形、福島を巡ります。この旅行は、かっての外国語学校の同級生・同窓生を訪ね歩いたもので、その旅行の目的は、単なる物見遊山ではなく、旅の途中で県庁などに立ち寄り調べものをしているところから、調査旅行であったことがわかります。この旅の途中、弦斎は、当時、経済の専門雑誌として著名な「東京経済雑誌」に、『人世必要の学問を論ず』と題する論文を函館から投稿します。この原稿は、その後、明治15年12月30日付「東京経済雑誌」第144号に掲載されます。この著作は、今日知られる弦斎の多くの著作のなかにあって、最も早い時期の著作であり、処女作といえるものになっています。
明治16年、弦斎20歳の時、一大転機が訪れます。この年の正月、弦斎は、立憲改進党の機関新聞である「同盟改進新聞」の同盟社員に加入し、さらに、同じ月、立憲改進党の機関雑誌である「明治協会雑誌」会員となります。
これらの会員となる中で弦斎は、後に郵便報知新聞社主となる矢野文雄(龍渓)と出会うのでした。
明治7年(中央が11歳の弦斎)