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ひらつか歴史紀行 第7回 「平塚」の伝説的女性について

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第7回 「平塚」の伝説的女性について (2009年10月号)


  前回は「平塚」の地名について考えてみました。

  そのなかで、「平塚」の地名の由来と伝えられている「平政子」という伝説的な女性について触れました。今回はそれにちなんで、平塚の女性として伝説的に伝えられている人々についてみていきたいと思います。
 さて、平塚で伝説的に語られている女性として、古い順に、平政子・大磯の虎・お菊・お初の4名があげられます。
 まず、平政子ですが、前回でも取り上げたように彼女は「平塚」の地名の由来とされる「平塚の塚」の言い伝えに現れる女性です。伝説によれば、平政子は桓武天皇3代の孫、高見王の娘とされています。そして、東国に下向する途中、
天安元年(857)2月25日、平塚で没したといいます。そこで、彼女のひつぎを埋めて塚を作ったところ、塚の上が平らであったことから「平塚」の地名が起こったとされています。この言い伝えは天保期に幕府が編さんした『新編相模国風土記稿』に収録されているので、江戸時代から言い伝えられていた伝説といえます。しかし、「平政子」なる人物の実在は確認できず、『新編相模風土記稿』の編者も「土人の口碑に伝ふるのみ、未だ考る所なし」としており、あくまでも言い伝えであるとして、その実在を否定しています。
 次は大磯の虎です。「大磯」の虎なのになぜ、「平塚」の女性なのかといえば、彼女が平塚出身だからです。大磯の虎は『曽我物語』に登場するヒロインです。『曽我物語』は曽我十郎・五郎の兄弟が、父の仇である工藤祐経を討つ日本三大敵討ちとして知られる物語ですが、虎は曽我十郎の恋人として登場します。『曽我物語』では虎の出生が次のように語られています。
 「彼ノ虎ト申遊君ハ、母本ヨリ平塚ノ宿ノ者ナリケリ。其父ヲ尋ヌレバ(中略)宮内ノ判官家長ト云シ人ノ娘ナリ。(中略)平塚ノ宿ニ夜叉王ト云フ傾城ノ許ヘ通ケル程ニ女子一人儲タリ。寅ノ年寅ノ日寅ノ時ニ生タリケレバ、其名ヲハ三虎御前トゾ呼ニケル。(中略)父死テノ後ハ、母ニ副ツヽ宿中ニ遊ケルヲ、形ノ吉ニ付テ、大磯ノ宿ノ長者ニ菊鶴ト云フ傾城ノ乞取テ、我カ娘トソ遵ケル」(真名本『曽我物語』)
 これによると、、虎は平塚宿の遊女夜叉王と宮内判官家長との間の娘であり、父没後は、母と一緒に暮らし、平塚宿で遊んでいたが、容姿が良いので大磯の菊鶴という遊女に乞われて養女になったというのです。つまり、大磯の虎は平塚生まれ、平塚育ちの女性なのです。さて、虎は17歳の時、20歳の曽我十郎と出会い、恋仲になりました。しかし、その後、十郎は敵討ちを果たしますが、討死してしまいます。そのため、虎は19歳で出家し、廻国修行をおこない、64歳で亡くなったとされています。
 次はお菊です。お菊は『平塚市郷土誌事典』(昭和51年)によれば、平塚宿役人間壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳方に奉公中、家宝の皿を紛失したと濡れ衣を着せられ、手討ちにされたといいます。この事件は元文5年(1740)2月のことで、後に怪談「番町皿屋敷」のモデルになったといわれます。なお、お菊の法名は「貞室菊香信女」といい、晴雲寺に墓があり、旧墓域であった紅谷町公園には「お菊塚」があるため、この話を知っている人も多いようです。しかしながら、この事件を伝える当時の資料は残されていません。また、伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社 2002年)によると、類似した話は全国に分布して存在し、さらに、平塚のお菊の事件があったされる元文5年以前にも「皿屋敷伝説」は存在していたことがわかります。これらから考えると、平塚のお菊事件の実在は不明といわざるをえませんが、少なくとも平塚がオリジナルではないことはいえると思います。
 最後はお初です。お初は『平塚市郷土誌事典』によれば、平塚宿の百姓松田久兵衛の娘で、荻野山中藩の江戸屋敷の中臈岡本みつの下に奉公中、主人みつが同輩の沢野から侮辱を受け自害したので、直ちに沢野を訪ね、刺殺して仇を討った烈女とされています。そして、この事件は後に歌舞伎「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」のモデルになったといいます。また、要法寺西側の廃寺となった広蔵寺の墓地にある「安室貞心信女、明和六年(1769)十月九日」の刻銘のある墓がお初の墓といわれています。なお、主人の岡本みつも平塚宿出身であったといいます。『平塚小誌』(昭和27年)では名前が“たつ”とされ、大久保教寛の江戸屋敷に仕えた女性とされています。そして、湯浅常山著『常山紀談』の「大久保家の婢女主の仇を撃し事」という記事に彼女の忠義が賞賛されていると紹介されています。『常山紀談』とは江戸時代中期に書かれた戦国時代末から江戸時代初めの武将たちの逸話を記した随筆です。しかし、『常山紀談』の「大久保家の婢女主の仇を撃し事」を読んでも仇討をした下女の名前も出身地も書かれていません。さらに、この事件についても関係する資料が残されておらず、ことの真偽は不明といわざるをえません。
 以上、平塚の伝説的女性について考えてみました。いずれも直接的に存在を示す資料がないため、その実在を証明することはできません。ただ、虎については鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』にその名前が見られるので、4人のなかで実在した可能性がもっとも高いといえるかもしれません。しかし、これについても諸説あり、後に考えてみたいと思います。
 さて、それではこの4人が実在しない人物だとしたら、彼女たちにまつわる伝説は無意味なのでしょうか。私はそうは思いません。平政子、虎の伝説には平塚が交通集落であったという平塚の地域性が反映されていると思います。また、お菊、お初の伝説からは平塚、相州に女性の江戸奉公が多かったという地域性がこれまた反映しているといえます。伝説にはそれが語られる地域性が刻まれており、そのメッセージは地域を知る文化財のひとつといえるのではないでしょうか。


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