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ひらつか歴史紀行 |
号外 平塚市域の関東大震災 (2011年4月10日)
2011年3月11日に発生した東日本大震災は日常生活に突然襲いかかった痛ましい出来事でした。亡くなられた方々、被災された方々に謹んでお悔やみとお見舞いを申し上げます。
さて、東日本大震災を契機に博物館には地震に関するお問い合わせがいくつか寄せられ、多くの方の地震に対する関心の高まりをうかがうことができました。「ひらつか歴史紀行」では、第11回 元禄南関東大地震と平塚宿の被害で元禄16年(1703)11月23日に発生した南関東大地震について取り上げましたが、今回は号外として大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災の平塚市域における被災状況についてみていきたいと思います。なお、関東大震災では現平塚市域において死者476名、家屋全壊4192戸の被害を出しました。家屋倒壊率は平塚南部の砂州砂丘地帯より北部の自然堤防地帯の方が高く、軟弱地盤の厚さが反映していると考えられます。これらの地学的な概要については「大地の窓」1923年関東地震の被害もご覧ください。また、旧町村における建物被害・死傷者の罹災状況は『平塚市史』7巻No.57に一覧表で掲載されています。ここでは関東大震災の一次被害の様相を語る証言や記録を地域別にご紹介したいと思います(出典は注記がない限り平塚市博物館『震災調査報告書』)。
1)相模川右岸河口・馬入橋付近
現在の札場町・千石河岸・久領堤付近では「地割れがあり、水を伴う砂利を噴き上げた」、「足が湧き上がる砂で埋まり歩けなくなって困った」などの液状化現象の証言がみられます。馬入鉄橋も液状化現象で倒壊しました。また、現平塚市内では津波による大きな被害は確認できませんが、「四之宮辺まで波が遡ったといわれ」、「船だまりの船は、みな栓が抜いてあったが全部流された」といいます(『西さがみ庶民史録』5号)。
倒壊した馬入橋 |
2)西八幡・東八幡・四之宮・真土付近
八幡小学校付近での地割れ、東八幡の古河電工付近の噴砂、四之宮でも「噴砂が至る所で出た」との証言があります。また、四之宮の民家の敷地には幅1m、深さ1mの地割れ、真土でも「地割れに家ごと落ちた」という証言があります。ここでも地割れと液状化現象が確認できます。なお、海軍火薬廠では爆発事故が発生し、「其音響甚シク黒烟天ニ漲リ、四面暗黒」になったといいます(『平塚市史』7巻No.48)。
3)神田地区
田村では3戸を除いて「百八十戸以上ノ居宅ハ全部倒壊」という被害を出し(『平塚市史』7巻No.48)、神田地区は現市域で最高の家屋倒壊率は示します。また、この地域でも噴砂と地割れの証言があり、水田は「海嘯の如く泥水の波濤を巻き起こし、水田畦畔は陥没または決壊し、道路毀損し、水田中は大池沼」となったといいます。また、神川橋では「200mにわたってずっと杭が出た。相模川沿いは昔の治水の杭がたくさん出た」といいます。
4)平塚駅付近
平塚駅は全壊し「駅員と列車待合客百数十人名は、その下敷きにになり、死者6名」を出しました。平塚小学校(現崇善小学校)では「全国殖産興業博覧会褒章授与式挙行のため参列者200名がおり下敷き」となり、21名の死者を出したといいます。 また、相模紡績株式会社平塚工場(現JT平塚工場)では「高さ百メートルもある工場の煙突が根元の土台ごと盛り上がったと思ったら、地響きを立てて、ドッカンと倒れ」たといい、建物はすべて倒壊、死者は144名にも上り、うち約60名は夜勤明けのため寮で就寝していた女工たちであったといいます(『西さがみ庶民史録』5号・『神奈川県震災誌』)。
平塚駅 | 現平塚市明石町付近の惨状 |
相模紡績平塚工場の被害 | 平塚小学校:褒章授与式会場が原形をとどめる |
5)上平塚・南原・纏・徳延付近
この地域でも「青い砂・富士砂・水が噴出した」(上平塚)、「庭に幅30cm地割れし水が出た」(纏)、「家の下からも幅10cmほど砂泥を噴出した」(徳延)といった液状化現象が確認できます。徳延は「家はほぼ全滅した」といいます。また、花水川の堤防も崩落しました。
古花水橋付近の道路の地割れ |
6)金田地区
この地域でも地割れの証言があります。入野では「みな家が潰れていた」といいます。また、「金田小学校の校長先生は、その時将棋をしていて、「あわてるな、逃げるな」とどなった。そして、つぶれちゃった。その時、五つか六つのお孫さんを抱えた奥さんは、背中がまっ二つに折れ即死状態」だったという証言もあります(『西さがみ庶民史録』5号)。さらに、「金目川の堤防はめちゃめちゃで、増水につぐ増水で、上から流れてくる水が、みんな自由自在」だったといいます(『西さがみ庶民史録』5号)。飯島でも噴砂・噴泥の証言があります。
7)豊田地区
この地域では小さい地割れと水田での噴水が証言されています。
8)城島地区
下島では「家の倒壊は少なかった」ようですが、大島では「家は殆ど潰れた」といいます。城所では「道路他一面地割れ」だったといいます。
9)岡崎地区
「伊勢原県道は、道に沿ってズタズタに地割れ」、「鈴川の堤防は全て川に埋まり、川底は上がった」(別名)といいます。また丸島では「家の下から噴泥し、富士砂のような噴砂」があったといいます。なお、旧岡崎村役場の資料によれば至る所の宅地・耕地・道路に隆起と陥没・亀裂が記録されています。
10)広川・片岡・公所付近
広川では民家で「敷地内の元半分田だった所は、南北に20mにわたり、水や泥が噴き出した。地割れは多数あった」といい、片岡・公所でも「方々で地割れ」がありましたが、公所では家は潰れなかったとのことです。また、旧金目村役場の資料によれば広川・千須谷の至る所に「隆起」・「陥落」・「崩落」・「湧水枯渇」などの被害が記録されています。
11)南金目・北金目・真田付近
南金目では多数の地割れ、北金目でも多数の地割れと民家敷地内での噴泥が確認されています。また、真田では「天徳寺の東側100mの竹藪が地割れし、池が出来た」といいます。また、旧金目村役場の資料によれば南金目・北金目の至る所で土地の「隆起」・「陥没」・「崩落」が記録されています。
金目川堤防の崩壊 |
12)土沢地区
上吉沢・下吉沢で地割れと民家敷地内での湧水が報告されています。土屋では「堤防が崩れて河川流出」、宝盛寺前での泥水噴出、「県道沿いの家は全滅」だったそうです。
以上、関東大震災の被害を語る証言・記録をみてみました。これらは証言・記録として残された被害のごく一部ですから、当然、これ以外にも多くの被害がありました。ただ、以上の証言からも市内いたるところでの地割れや、河川付近の旧河道・自然堤防地帯などでの液状化現象、軟弱地盤地帯での家屋倒壊といった平塚市域の特徴的な被災状況がうかがえます。なお、平塚市博物館では平塚周辺の地盤・活断層などの情報を2007年度夏期特別展図録『平塚周辺の地盤と活断層』および、『平塚周辺の地盤図』で報告しております。防災対策を考えるうえでのご参考にしていただければ幸いです。
【参考文献】
『神奈川県震災誌』(神奈川県 1927年)
『西さがみ庶民史録』5号(西さがみ庶民史録の会 1983年)
『震災調査報告書』(平塚市博物館 1999年)
2007年度夏期特別展図録『平塚周辺の地盤と活断層』
『平塚周辺の地盤図』(平塚市博物館 2007年)
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