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ひらつか歴史紀 第21回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その1

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第21回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その1(近世の平塚市域最大の村、須賀村) (2010年12月号)


  前回までは平塚市域で展開した報徳仕法についてみてきました。今回からは相模川・相模湾水運の歴史をみていきたいと思います。

  さて、現在では全くみられず、想像するのも難しいのですが、相模川・相模湾の水運は江戸時代の平塚地域、さらには相模国の歴史を考えるうえで非常に重要な意味を持っています。
なぜなら、鉄道やトラックといった輸送機関がなかった江戸時代、物資の大量輸送の主力は船であり、甲州から津久井を抜けて相模平野の中央を南北に縦断する相模川と、相模国内外とつながる相模湾は、まさに相模国の物流・経済の大動脈・生命線であったからです。
 そして、相模川の河口にあって川と海の物流の結節点として繁栄したのが須賀村(現、平塚市須賀・札場町・幸町・千石河岸・高浜台・松風町・袖ヶ浜・夕陽ヶ丘・代官町・久領堤)でした。

相模国輿地全図
相模国輿地全図
 相模川は津久井・相模平野を貫通し、流域の村々にとって物流の生命線であった。須賀村はその河口に位置する物流の結節点であった。近世後期の作成。(当館蔵)

 この須賀村は、江戸時代の平塚市域の宿村のなかで最も家数・人口の多い村でした。現在の「平塚市」の市名は、東海道の8番目の宿場である平塚宿に由来しています。この宿場町である平塚宿の家数は天保年間(1830縲鰀1843)に編さんされた『新編相模国風土記稿』によれば289軒でした。さらに、平塚宿とともに宿場の業務を担った平塚新宿の家数は119軒で、両宿を合わせると408軒になります。これに対して、須賀村の家数は一村で452軒にものぼります。現在の「平塚市」の市名の由来ともなり、市外にも知られる平塚宿ですが、平塚新宿を合わせても須賀村の規模には及ばなかったのです。ただ、一方で「須賀」の地名は僅かに相模川の対岸の飛び地に残されているのみとなっています。
 それでは、なぜ、須賀村はそれほどの規模の村になったのでしょうか。これはいうまでもなく、相模川・相模湾の水運の賜物といえます。元禄17年(1705)4月、前年に発生した南関東大地震の被害の復旧を幕府に訴える須賀村の願書に、「当村の儀、廻船の助成をもって弐千人余の者渡世送り申し候」(『平塚市史』2 №21)という文言があります。つまり、須賀村は廻船業を中心とした産業で2000人もの人々が生活する地域だというのです。須賀村の各村民の詳細な職業は不明ですが、おそらく、廻船問屋を中心に穀物商や材木商、それらの従業員、船乗りや荷物を積み下ろしする港湾労働者など多くの人々の生業があったことが考えられます。さらには、他国の船乗りや甲州・津久井からの川船乗りたちも入り混じり、これにともなって諸地域からの物資・金・情報も集まり、平塚宿とは大きく異なる雰囲気をもった湊町であったろうと想像されます。
 以上、須賀村は相模川・相模湾の水運により江戸時代の平塚市域で最も繁栄した村であったと考えられます。次回以降、その繁栄を支えた相模川・相模湾の水運の歴史、その実態についてくわしくみていきたいと思います。


【参考文献】
 2009年度秋期特別展図録「山と海を結ぶ道 相模川・相模湾の水運」
 西川武臣「近世の相模川・相模湾水運―津久井・須賀・柳島・神奈川―」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』36号 2010年)
 早田旅人「近世相模川・相模湾水運における須賀村の位置」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』36号 2013年)

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