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ひらつか歴史紀 第14回 幕末の村おこし竏瀦ミ岡村の報徳仕法 その3

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第14回 幕末の村おこし竏瀦ミ岡村の報徳仕法 その3(大澤父子の二宮尊徳との出会い) (2010年5月号)


  前回は片岡村における報徳仕法導入前夜の地域の様子をみてきました。今回は大澤父子と二宮尊徳との出会いについてみていきたいと思います。

  さて、前回、大澤家は血縁関係を通して地域の有力な地主・商人・村役人家とネットワークを形成していたと述べました。そのネットワークの一人に伊勢原村の加藤宗兵衛がいました。加藤家は茶商を営んでおり、現在でも「茶加藤」で有名な家です。大澤小才太は加藤宗兵衛の妹を妻としていました。また、小才太の弟で真田村へ養子に行った上野七兵衛も加藤宗兵衛の妹を妻にしており、大澤家と加藤家は深い縁戚関係にありました。そして、この加藤宗兵衛が片岡村での報徳仕法の導入のきっかけを作ったのでした。

大澤父子に述べた尊徳の教諭
大澤父子に述べた尊徳の教諭
 片岡村仕法の収支帳簿にである『三才報徳現量鑑』に記された尊徳の教諭。傍線部分に「重立候者分内を譲り」などと、あるべき富者としての姿が教諭されている。(個人蔵)

 さて、加藤宗兵衛も当時、家の経営に悩んでおり、その解決を模索するなかで「心学」に傾倒していました。「心学」とは近世中期以降に始まった精神修養・社会教化の哲学です。そして、天保9年(1838)閏4月、加藤宗兵衛は心学仲間である小田原藩領の駿河国竈(かまど)新田(御殿場市)の小林平兵衛から二宮尊徳の評判を聞くことになります。当時、小田原藩では尊徳による飢民救済事業が実施されており、尊徳は領民から「報徳様」と呼ばれ、名声が高まっていました。
 そして、この加藤宗兵衛から大澤父子は二宮尊徳の情報を得たのでした。大澤父子は早速、同年9月に小田原に滞在中の尊徳を訪れ、片岡村の復興仕法の実施を歎願したのでした。
 しかし、二宮尊徳はこの大澤父子の歎願を受け入れませんでした。そして、大澤父子に対して、次のような教諭を述べました。

 「およそ、村方衰弊の根元は貧富の不和にあり、貧富和して村柄立ち直らざることなし、このゆえに重立候者暮し方取り縮め、分内を譲り、親疎を選ばず善人を先んじ、暮し方取り直し候はば、終に自然と人気相進み、村柄立ち直り申すべく候えども、容易ならざる所行、まずは差し控え、篤と勘考致し候」

 つまり、村が衰える根本の原因は富者・貧者の不和であり、貧富が和すれば村は立ち直るといいます。そして、そのためには富者が生活を緊縮し、その分を村内の善人を優先に分配していけば、自然と村人の風紀もよくなり、村は必ず立ち直るというのです。しかし、この実践は非常に難しいのでまずは取りやめ、よく考えなさいと諭しています。
 ここには富者の富を再分配することで貧富の格差を緩和し、貧者の生活安定と社会の活性化を促す考えがうかがえます。ただ、その実践は難しいとして大澤父子を突き放すことで、父子のやる気を試したといえます。

 しかし、大澤父子はこの尊徳の教諭を受けて、「余りある者、足らざる者を補うの天理なる事」を悟り、改心し、まずは自らの手で仕法をはじめることにしました。


【参考文献】
 2006年度春期特別展図録「幕末の村おこし竏駐{尊徳と片岡村・克譲社の報徳仕法」
 早田旅人「近世報徳『結社仕法』の展開と構造竏酎鰹B片岡村・克譲社仕法からみる地主仕法の再検討竏秩v(『関東近世史研究』63号 2007年)

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