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第13回 幕末の村おこし竏瀦ミ岡村の報徳仕法 その2(片岡村と大澤家) (2010年4月号)


  前回は二宮尊徳と報徳仕法について概説しました。今回から片岡村の報徳仕法の話に入っていきたいと思います。

  とはいえ、今回は報徳仕法の具体的な中身に入る前に、その前提として平塚市域の報徳仕法の中心となった片岡村と中心人物となる大澤家の人々についてみておきたいと思います。

片岡村絵図
片岡村絵図(当館寄託)
 明治初期の片岡村。右側が北である。村の中央を流れる金目川を挟んで北は水田地帯、南が丘陵地で田畑・山林・宅地となっている。

 相模国大住郡片岡村は現在の平塚市片岡にあたります。南北に細長く、金目川を挟んで南は丘陵地で畑や山林、民家があり、北に水田を中心とした平地が広がっていました。領主は延享2年(1745)以降、6000石の大身旗本高井氏であり、村高は728石余で耕地の7割強を田地が占める米穀生産の中心の村でした。
 しかし、明和・安永期(1764縲鰀1780)以降、不耕作地の発生や人口減少などの荒廃がみられるようになりました。報徳仕法が実施される直前の天保9年(1833)における片岡村の家数は50軒、人口は247人でしたが、そのうち50人以上の村人が奉公などで村を出たり、農業外の生業を営んでいました。
 また、片岡村で報徳仕法が実施される直前は天保饑饉の時期にあたります。天保饑饉は天保4縲怩V年にかけての全国的な飢饉ですが、片岡村周辺でも天保7年の田畑諸作は大凶作となり、大磯宿では米価高騰に苦しむ宿民により川崎屋孫右衛門ら米穀商人が打ちこわされる事件が起きました。このように天保饑饉期の片岡村周辺社会は動揺をみせていましたが、打ちこわしにあった川崎屋孫右衛門は大澤家と縁続きにあり、社会的な動揺に対する大澤家の危機意識は強かったと思われます。ここに大澤家が報徳仕法を受容する背景があったといえます。

大澤小才太肖像
大澤小才太肖像(個人蔵)
 文化8年(1811)大澤市左衛門の長男として生まれた。天保9年に父とともに二宮尊徳の教えを受け、片岡村に報徳仕法を実施した。明治22年(1889)、79歳で没した。

 さて、片岡村の報徳仕法は大澤市左衛門・小才太の父子により始められました。大澤家は領主高井氏の相州12か村の領地を統括する割元名主の家であり、また、天保期には所持高300石を越す片岡村随一の地主でもありました。大澤家の所持地の8割は片岡村にあり、片岡村の3割強の土地を所持していました。しかし、その所持地は村の荒廃のなかで村人が手放した土地であり、大澤家の地主経営は不安定なものでした。そのため、大澤家にとって村の復興と地主経営の安定化は表裏一体の課題だったといえます。
 また、大澤小才太の弟のうち二人は近隣の真田村(平塚市真田)の地主・村役人家である上野家と陶山家の養子となっており、末弟の政吉も嘉永3年(1850)には湯本村(箱根町)の温泉宿福住家に養子に入ります。さらに、小才太は伊勢原の茶商加藤宗兵衛の妹を妻としており、宗兵衛を通して大磯の川崎屋孫右衛門と縁続きになっていました。
 このように、大澤家は血縁関係を通して地域の有力な地主・商人・村役人家とネットワークを形成しており、これが後の報徳仕法発展の基礎となっていきます。





【参考文献】
 2006年度春期特別展図録「幕末の村おこし竏駐{尊徳と片岡村・克譲社の報徳仕法」
 早田旅人「近世報徳『結社仕法』の展開と構造竏酎鰹B片岡村・克譲社仕法からみる地主仕法の再検討竏秩v(『関東近世史研究』63号 2007年)

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