平塚市博物館公式ページ
「相模川の生い立ちを探る会」 活動の記録
第255回 2014年5月25日 中井町井ノ口~秦野
■ テーマ:葛川流域の地形2(上流編)
■ コース:中井町井ノ口~東名中井秦野インター~秦野市西大竹~秦野駅
今回は、中井町井ノ口より上流側の葛川沿いを歩きながら、段丘地形や地層の観察を行いました。最初に先生から、葛川はかつて水無川と金目川を併せた大きな河川でしたが、約2~3万年前に渋沢断層の活動により水無川・金目川が平塚方面に流れるようになり、上流部分を奪われてしまった結果、わずかな水量しかない現在の葛川となってしまったとの解説をいただきました。今回はその証拠となる段丘地形、河川争奪に伴う流路変遷、秦野盆地の形成との関係について見ようというのが目的でした。
まず井ノ口地域を散策しながら、かつて葛川が作った少なくとも三段の段丘面を観察しました。この付近では、井ノ口小学校の校庭のある面(高位Ⅰ面と仮称)、小学校の校舎から簑笠神社入り口の面
(高位Ⅱ面と仮称)、井ノ口公民館から簑笠神社東側の面(中位面)の段丘があり、その東に葛川沿いの葛川低地がありました。この低地は、水田が全くなく、赤土の畑であり、沖積面とは思われませんでした。葛川低地と東側の丘陵との境で、箱根新期軽石流(TP
flow通称東京軽石流)とその上位のローム層の露頭を観察しました。軽石流は火山灰基地に白色軽石が散在していました。その上に箱根火山由来の噴出物である中央火口丘第一軽石(CCP-1)などが数枚観察できました。
そこから低地に沿って北上し、かつて金目川の河床であったことを実感しました、東名インター歩道橋付近は谷の最も高い場所で、ここより秦野盆地へ急に下っていきます。このような場所は風隙
(wind gap) と呼ばれ、河川の上流部が奪われた(河川争奪という)地点であるということです。秦野盆地と大磯丘陵の境には、渋沢断層が東西に走っており、この断層の活動により、南側の大磯丘陵が隆起したことにより、葛川の上流部が奪われてしまったことを意味しているとのことでした。実際には、この秦野中井インター付近は、渋沢断層より1.3
kmほど南に位置していることから、この地点における地盤の隆起は構造運動に伴って地表の堆積物がたわんだこと(撓曲)によると考えられるとの解説を戴きました。
その後、かつての金目川の流路であった西大竹の人家付近で、逆川の源流を確認し、現在の逆川にはほとんど水はなかったのですが、逆川の作った谷は逆川橋付近で5~6
mほどの深さがあり、近所の方の話によると70~80年ほど昔は逆川で鰻が捕れたとのことから、かつてはもっと水量があったことが伺えました。室川は渋沢断層の北縁を流れる川で、約5万年前に形成されたとのことです。
最後に、秦野駅東方の水無川河原で、河原石の観察を行いました。水無川は塔ヶ岳南斜面が源流であり、河原石を観察すると丹沢層群下部層由来の凝灰岩と火成岩が多くを占めていることが確認できました。特に火山角礫岩や砥石となる角閃石流紋岩が目立ちました。この河原で先生からまとめをしていただきました。構造運動に伴う地形変化とその結果としての河川争奪や段丘の形成、段丘崖に露出する地層、河原石に基づく岩石の分類とその起源など、多様な事柄を学ぶと同時に、それらが相互に関連しあっていることを実際に見てよく理解することができました。
▲井ノ口公民館の建つ中位面と西側の一段高い高位面の比高を目測する | ▲高位面は2つの面に分かれることを確認する (井の口公民館西南西) |
▲井ノ口小学校は、校舎が建つ面より、校庭の方が一段高い | ▲現在の葛川は平野の幅に比べて、川幅は小さい(井ノ口交差点北北東) |
▲箱根火山の火砕流である箱根新期東京軽石流の露頭を観察する(井ノ口交差点東) | ▲秦野中井IC南から旧葛川の広い谷幅をもつ流路を望む |
▲秦野中井IC料金所の歩道橋から、旧葛川の最高標高地点(分水嶺)である風隙地形を観察する | ▲旧葛川の流路の中を逆流するように北に流れる逆川の源流部(秦野市西大竹) |
▲県道秦野二宮線の旧道と交わる付近で暗渠となる逆川を観察する(秦野市西大竹) | ▲水無川・室川・逆川の合流地点を望む(秦野駅東南東) |
▲水無川の河床で河原の礫を集め、分類する(秦野駅東) | ▲分類した河原石の特徴を教わる(秦野駅東) |
電話:0463‐33‐5111 Fax.0463-31-3949