弥生時代(やよいじだい)は“お米”の時代?

【弥生時代の米づくりについて】



          

弥生時代は“米づくり”がはじまった時代だといわれていますね。
教科書を見ても、田んぼをつくっている様子や実った稲を収穫する様子などをえがいたイラストがのっていたりします。
こうした米づくりは、縄文時代の終わる直前のころから弥生時代の始まりにあたる、今から約3000年前(もしくは約2400年前)に九州北部で始まったと考えられています。
つくり方を教えたのは、今でいう中国のある「中国大陸(ちゅうごくたいりく)」や韓国・北朝鮮のある「朝鮮半島(ちょうせんはんとう)」から、
日本列島へ移り住んできた人たちであると考えられています。中国大陸では約9000年前から米づくりを行っていたとされているので、
米づくりの“プロ”からその技術を教わっていたのかもしれません。

「縄文時代の終わる直前のころから~」と、やや難しいことを書いてしまったかもしれないので少し説明をしますね。
教科書を見ると「米づくり」という語句の前に、「水路をつくって」や「水田をつくって」という説明がありませんか?
ない人はイラストを見てみてください。川から水路をひいて水田をつくったり、あぜ道がつくられたりしていませんか?まるで今の田んぼみたいですね。
このような本格的(ほんかくてき)な米づくりを「灌漑稲作(かんがいいなさく)」と呼んだりもします。
実は近年、「縄文時代の終わる直前のころ」より前にも米づくりがあったのではないかと議論されています。
というのも、「縄文時代の終わる直前のころ」より前に「お米」があったとするさまざまなものがみつかっていて、本によってはそう書かれていたりしています。
ですが、水田の跡や水路の跡など、本格的な稲作を行っていた痕跡(こんせき)は縄文時代の終わる直前のころから弥生時代の始まりにかけてのものが最古(さいこ)とされています。
こうしたわけで、教科書にはこの時期に米づくりが始まったと書かれているのです。
“時代”と“時代”の間については、たくさんの人の興味・関心をひきますが、まだくわしくわかっていないことがとても多いのです。




   

平塚市の弥生時代での米づくりは?

  

     

九州北部でつくられた水田はその後全国各地へ急速に広まって…はいきませんでした。
弥生土器は出現してから、九州から東北の全国でみられるようになっていきますが、米づくりはそうはいかなかったようです。
青森県では弥生時代の早い時期の水田跡がみつかっていて、東北にははやく米づくりは伝わっていたようです。
しかし、ここ関東地方での米づくりは、九州北部で始まってからおよそ900年後(もしくは300年後)の今から約2100年前のことで、
弥生時代の中ごろまで待たなくてはなりません。なぜこのような時間差が生まれてしまっているのかは分かりません。

     

さて、弥生時代の「米づくり」についての平塚市の状況を見てみることにします。

写真1
【1】上ノ入遺跡B地点2号住居跡


上ノ入遺跡(かみのいりいせき)は「縄文時代のくらし」「縄文人のたてもの」で紹介した遺跡です。
この遺跡では縄文時代のものだけでなく、弥生時代の終わりごろのたて穴住居跡も発見されています。そのひとつが【1】です。

写真2
【2】土器のかけらについた“お米”のあと


このたて穴住居からみつかった土器のかけらのひとつが【2】です。かけらに白い丸が記されていますね。そこに注目してみましょう。
なにやらくぼんだような、欠けたような感じの穴が開いています。この穴、ごはんつぶの形によく似ていると思いませんか?
これは土器をねんどでつくっているときについたお米の痕(あと)だと考えられています。高い位置(台地(だいち)の上)にある遺跡なので、田んぼの跡はみつかっていませんが、
台地周辺の低い場所のどこかに、当時の田んぼがもしかしたらあるのかもしれません。

   

平塚市内のそのほかの様子も見てみましょう。

写真3
【3】十六町遺跡(じゅうろくちょういせき)があるところ

平塚市片岡付近にある「十六町遺跡(じゅうろくちょういせき)」の調査で、弥生時代当時の川の跡と溝(みぞ)がみつかりました。
この川の跡は弥生時代の終わりごろのものとみられていて、近くでその時期よりやや古い土器もみつかっています。
この川に接続するように溝が掘られていて、水路のようにしていることも確認されました。
この川の中から、時期は分かりませんが、稲穂を収穫するための「石包丁」のような石器もみつかっています。
こうしたことから、今後近くから、まだ見つかってはいない弥生時代の水田の跡がみつかるかもしれません。

写真4
【4】大原遺跡(おおはらいせき)があるところ

大原遺跡は、平塚市大原にある遺跡です。現在の平塚市総合公園の一部がその範囲(はんい)となっています。
弥生時代のたて穴住居が4軒見つかっていて、そのうち2軒は弥生時代中ごろのものです。

写真5
【5】みつかった弥生時代のたて穴住居

この弥生時代中ごろは神奈川県をふくむ南関東で米づくりがはじまったとされる時期になります。
残念ながらここでも水田の跡はみつかってはいません。調査ができた範囲が少なかったのです。
ですが、今は平たんに埋められていますが、当時この遺跡のある一帯は周辺よりやや低く、水やどろどろした土がたまりやすい地形の近くにありました。
ですのでもしかしたら、そうしたところで米づくりをしていたのではないかと考えられています。



弥生時代の米は、時代の特徴を代表するものなのでとてもよく興味・関心がもたれるところです。
当時の人々がどのように米づくりを受け入れていったのか、どのようなルートで日本列島各地にもたらされたのか、などなど。まだまだ議論されています。
平塚市内でも、水田跡こそはみつかっていませんが、弥生時代の米づくりについてうかがわせるような資料が少なからずみつかっています。
このページで紹介したもののほかにも、「弥生時代のおにぎり」というのもあります。これもおもしろい資料ですね。