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_お祭りの復活

平塚のお祭り −その伝統と創造− (I)

 お祭りの復活

平成17年夏期特別展図録 平成17年7月発行

 昭和40年代はお祭りの停滞期でした。ほとんどの神社が太鼓を叩かず、神輿も担がず、芝居もやらず、お祭り自体が無いという状態でした。それが昭和49年のオイルショック以降、地域の伝統文化を見直す動きが高まり復活します。復活後の大きな変化は、子供が太鼓を叩き、女性が神輿を担ぐようになったことです。また神輿は氏子で担ぐべきものでしたが、担ぎ手不足を補うために各地の保存会が交流するようになりました。世の中の動きに合わせ柔軟に対応したことで、お祭りは続いてきたといえます。お祭りを盛り上げようと、今も各地で様々な創意工夫や伝統の復活がなされています。

伝統の復活とお祭りの創造
 伝統の復活は馬入に顕著である。昭和25年以降途絶えていた屋台の巡行と木遣り唄、万燈がここ2〜3年で次々に復活している。祇園ばやしも約20年ぶりに復活した。
 お祭りの創造を囃子太鼓に関していえば、中原のバチ合わせ、田村の三町合同演奏、北金目の太鼓の独演会などが挙げられる。田村の合同演奏や八幡の三カラの合同演奏など、太鼓の数を増やして迫力ある合同演奏を聴かせる趣向が取り入れられ始めている。北金目は失われていた太鼓のレパートリーを他地区から学び、メドレー風にアレンジして宵宮に披露するようにした。叩き合いだけでなく、聴かせる太鼓を取り入れたことで、練習に熱が入り、聞く側も以前に増して注目するようになった。北金目の大久保は高校生が自ら作曲した創作太鼓を披露するまでになった。
 神社の人集めにも工夫が見られる。最近の流行りはビンゴゲームで、景品が当たるのでビンゴの時間は賑わう。店は露店商に任せるのではなく、自治会などで模擬店を開く所が増え、安価で美味しい物を提供するので人気がある。

本宿雅組
 本宿雅組は、豊田本宿の10〜20代の若者によるお囃子グループである。「屋台囃子」「宮昇殿」「治昇殿」」「唐楽」「鎌倉」「仕丁舞」「人場」といった豊富なレパートリーの全曲に笛が付き、獅子、おかめ、ひょっとこ、天狗と、次々に面を換えて踊る。魅せて聴かせる祭囃子である。
 雅組のお囃子は、豊田囃子をベースに、周辺地区の笛と踊りを研究し、雅組流に独自にアレンジしたものである。地元で失われていた笛と踊り、曲目を復活させるべく、各地のお祭りに出かけて指導を受け、自分たちのお囃子を創り上げた。
 いつの時代も祭囃子は変化してきた。型どおりに演奏するだけでなく、太鼓の打ち方にアドリブを入れて打つ。才能ある個人がひらめきで始めたことが地区の伝統として定着することもある。祭囃子は生きているからこそ、演じる者も、見る者も夢中になれる。それが祭囃子の魅力でもある。
 本宿雅組は、伝統的な豊田囃子の継承復活というだけでなく、伝統をふまえた上でお囃子に新しい生命力を注ぎ込んでいる。リーダー格の大塚さんと佐藤さんの類い稀な才能もさることながら、お囃子への飽くなき探求心には敬服させられる。雅組の囃子と踊りは、豊八幡神社の宵宮に神楽殿で、例大祭に本宿自治会館前で披露される。今後の活躍がますます楽しみである。

博物館リニューアルオープン記念の演奏 撮影 2005.3.19


中原東照権現祭にて中宿の山車で熱演する雅組 撮影 2005.4.17


今日のお祭り
 お祭りは、地区の住民が一体となる機会である。年齢も性別も職業も様々な人達が、氏神を共通にしているという同属意識の元に集まり、結束を高める。力を合わせて一緒にお神輿を担ぐことで、仲間意識は強まり、郷土愛が育まれる。徳延では、子供に太鼓を叩かせるのは上手い下手ではなく、皆で同じ半纏を着て山車で太鼓を叩いたことが、将来土地を離れたときに古里の思い出として残ってくれたら良いと語っていた。
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