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発見!ひらつかの民俗


第11回 真田のお天王さま(2011年10月6日 収集調査)

  平塚市真田に鎮座する真田神社の祭礼は真田のお天王様と呼ばれ、いうまでもなく昭和30年頃まで市域で最大の賑わいを見せた祭りである。7月9日の祭礼は農休日となり、近郷近在の農家は真田のお天王様までに田植えをはじめとする農作業を片付けることを目標にした。見世物小屋やサーカス小屋が立ち、神社から天徳寺までの道はびっしりと露天商が連なった。道という道は蟻のような人出だったという。
 『家と村Ⅲ-平塚市旧真田村-』(平塚市博物館 1980)によると、この日は「オノボリ交換といって、手ぬぐいくらいの大きさの幟を参拝者がつくってきて、古い幟と交換していった。オノボリ交換は近くの人はする人がなく、高座郡や相模原の人が多いという。この幟は家に持ちかえると屋内にかけておいた」。また、『神奈川県史各論編5民俗』(1977)には、「幟の希望者は戦後は少なくなったが、昭和43年の「お幟替帖」に記入されたのは16名で、平塚市内を中心として横須賀・町田・藤沢・厚木・茅ヶ崎・二宮・橘・小田原等であった。この幟を受けてくると、一年間自家の居間にかけ、翌年の祭には新調した幟と、若干の奉納金をつけて返し、再び幟と御供と祈祷札を借りて行くという。こうすると夏ヤミをしない、疫病にかからないと信じられている」と記されている。
 この奉納されたオノボリが30枚神社に保管されており、この度初めて実見できた。布に「奉納真田神社 年月日 地名 氏名」などと墨書された、110㎝×30㎝程度の小さな幟が多い。よく見るといくつかの幟には四隅に画鋲であけた穴があり、この幟を壁などに掛けていたことがうかがえる。

明治28年製作の大幟 奉納されたお幟
▲明治28年製作の大幟 ▲奉納されたお幟

  30枚のオノボリの奉納年代と地域の内訳を旧郡名でまとめると、下表のようになる。

地域・年代

昭和元~

昭和11

昭和21

昭和31

昭和41

昭和51

平成元~

不明

合計

鎌倉郡

高座郡

愛甲郡

12

中 郡

足柄下郡

町田市

不 明

合計

30

 30枚のお幟では、この民俗の正確な分布はとらえきれないが、およその傾向をうかがい知ることはできる。奉納年代は昭和一桁代が最も多く、やはり戦前の方が盛んであったと推測される。最も古いのは昭和5年に愛川町半原から奉納されたお幟である。最新の幟は平成元年で、この頃がオノボリ交換の最後であったという。
 地域別で多いのは愛甲郡と高座郡である。厚木市猿ヶ島の大塚喜代忠氏は昭和41、42、45年の3枚あり、毎年奉納していたのではないだろうか。このようにおおむね県央から県西部までの広い範囲から奉納されているが、中郡は伊勢原・二宮の2枚のみで、地元の人は交換しなかったと言う。博物館ではお幟27枚を寄贈していただいた。
 真田神社の玉垣は明治14年と昭和27年に建てられており、柱に記された地名から信仰圏の広さがわかる。この度撤去更新されることになり、山積みされた中から、大柱2本と小柱6本を寄贈していただいた。

撤去され積み上げられていた玉垣 撤去され積み上げられていた玉垣
▲撤去され積み上げられていた玉垣

   さて、なぜかくも遠方から大勢の人が真田のお天王様へお参りに来たのか、立ち会っていただいた神社代表のSさんに尋ねたところ、「参拝すれば夏病みをしない」「農休日であった」「真田与一の氏神さんで人気が高かった」ことなどが指摘された。また、以前、氏子のFさんは、「明治の初め頃、天徳寺3代前の住職・禎孝がPRして各地に松明講が結成された。頼朝が千葉へ逃げたコースを回り、托鉢し行脚したという。そのため千葉県にも松明講がある。7月の真田神社の祭にも講中の人が参拝に見える。だから、真田神社の賑わいも住職がPRしたためだ」と語っていた。
 祭礼日と厄除けのご利益は各地の牛頭天王社に共通する点であり、真田神社が特化された大きな要因は、歌舞伎や芝居による真田与一の人気と、天徳寺住職の喧伝活動のためと考えられる。松明講とは天徳寺境内の与一堂を信仰する講で、藤沢市、鎌倉市、横浜市、千葉県富津市などに講が組織されている。講中は8月23日の与一堂の大祭(真田与一の命日にあたる)に参拝する。
 もうひとつ、食物禁忌について述べよう。S家の先祖は真田与一の家老であり、真田神社はその子孫が京都の祇園社を勧請したものともいわれ(『家と村』)、江戸時代は牛頭天王社(真田神社)の神主を勤めていた。S家では家を継ぐ者はキュウリを食べてはいけないといわれ、Sさんと父親の分はキュウリを入れずに食事が作られていた。今はサラダなどに入っているので食べることもあるそうだ。
 根坂間でも八坂神社を祀っていて、「八坂神社の紋はキュウリを輪切りにした形に似ているから、キュウリは作っても食ってはいけない」と言い食べない人もいた。また、かつて旭地区では相模半白というキュウリの栽培が盛んで、その初物を真田神社へ供えに来た。
 キュウリの食物禁忌は、切り口が京都の祇園社の木瓜(もっこう)紋に似ているということから、今も博多では山笠期間中にキュウリを口にするのは御法度とされている。「キュウリは水神信仰を基盤として展開された祇園信仰と深く関わっている。このため夏に向かって行われる災難・疫病除けの儀礼において、邪気や穢れをのせた初なりのキュウリを祇園の神(天王)に供えてから川に流すという風習が各地に見られる」(『日本民俗大辞典』 吉川弘文館 1999)。水の精霊である河童の好物はキュウリで、河童に初生りのキュウリを献じる地方があることもこれに通じる。キュウリは牛頭天王社の神紋であり供物であることから、神社と深い関係にある家では口にすることがはばかられたのであろう。根底には水神の供物としてのキュウリがあり、牛頭天王社は疫病除けの神として河川流域に多く祀られたことから水神信仰と結びついたのではないだろうか。
 

 

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