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発見!ひらつかの民俗


第8回 地曳船の搬入(2010年5月16日実施)

  砂浜が広く、地先に根(岩礁)を持たない平塚海岸は地曳網に適していた。平塚の地曳網の歴史はどこまで遡れるのかわからない。天保年間(1830〜1844)刊行の地誌『新編相模国風土記稿』の須賀村の条に「漁船凡三十二艘(海士船十五艘、地曳船十七艘、但定数はなく、毎年増減ありと云)、獲る所の魚は鯛・鰺・比目・鯖・鰯等なり」、平塚宿の条に「漁船四艘、地曳船を以て漁す、捕る所鰺・鯖・鰯等なり」とあり、江戸時代後期には須賀村と平塚宿とで21艘の地曳船が使われていた。
 戦前には、相模川河口から金目川(花水川)河口にかけての平塚海岸に18統の地曳網が操業していた。内訳は須賀に10統、平塚新宿に3統、平塚本宿に5統であった。当時は網の数が多かったので、バンガケといい2統が一組になり順番に網をかけていた。しだいに人出が減り、2統が共同で漁をするようになった。さらに魚の減少、人手不足、シラス船曳網の導入などによって次々と休業していった。最後まで地曳を続けていた勘四郎網も平成18年に休業し、平塚の地曳網の歴史は幕を閉じたのである。
 その勘四郎網の地曳船が博物館へ寄贈された。全長9m80㎝、肩幅2m10㎝、ミヨシの高さ2m20㎝もの大型木造船である。大磯町で現役の地曳船が全長8m、肩幅1m65㎝、ミヨシの高さ1m40㎝程度であるのに比べ、平塚の船は大きい。それだけ網の規模が大きく、人手を必要としたのである。

プレハブ倉庫北面の解体作業 搬入前日の勘四郎丸
▲プレハブ倉庫北面の解体作業 ▲搬入前日の勘四郎丸

 この船を受け入れることは難事業であった。事前に博物館プレハブ倉庫にぎっしりと詰まっていた大型民具資料を城島分庁舎へ移動し、倉庫北面の壁を取り壊し、天井板まではがして受入体制を整えた。16日の朝8時より、漁師さんたちの協力で浜から船を押し出し、クレーンで吊って搬送車にのせ、博物館へ運んだ。幾本もの電線の隙間を縫うようにクレーンを慎重に操作し、少しずつプレハブ倉庫へ船体を入れていった。あと一歩というところでミヨシの先端が数㎝引っかかってしまった。船の下に敷くスラをトモ側(後部)に3枚重ね、オモテ側(前部)を1枚にしてミヨシを下げ、さらに後部をテコ棒であげて傾斜させても先端が当たり、最後は皆で船を横に傾げてやっと入れることができた。

浜にいた人たちの手も借りて船を押す めったに見られない船の裏底
▲浜にいた人たちの手も借りて船を押す ▲めったに見られない船の裏底
博物館に到着 吊りながらプレハブ倉庫へ入れる
▲博物館に到着 ▲吊りながらプレハブ倉庫へ入れる
人力で押す ミヨシがつかえ一時は進退窮まる
▲人力で押す ▲ミヨシがつかえ一時は進退窮まる

 この船は、昭和56年に二宮町の二宮造船において、当時145万円で造られた。もはや和船を造る現役の職人は県内に無く、船大工の伝統技術を知る上でも貴重な資料である。また、同じ地曳の船でも形や大きさに微妙な違いがあり、勘四郎網の網元・松本重雄さんは、「この船は形が格好いい」と語る。船の各所に補修跡があり、30年近くに及ぶ漁の歴史を物語っている。今後、松本さんのお話を聞いていき、この船の履歴書のようなものを作成していきたい。松本さんは、10才代から60年以上にわたり、地曳一筋に生きてこられた方である。海や漁に関する松本さんの体験的知識も船と同じくらい貴重である。また、綱、網、樽などの関連漁具もあわせて寄贈していただく予定である。船、関連の漁具、使用者の話、この3つがすべて揃うことでさらに資料的価値が高まる。将来的にこの船を公開展示できるように少しずつ整備を進めていく予定である。

勘四郎丸と網元
▲勘四郎丸と網元
プレハブ倉庫の修復作業 外壁をトタンで覆う
▲プレハブ倉庫の修復作業 ▲外壁をトタンで覆う
ミヨシの先端は天井を切って高くした 修復作業完了
▲ミヨシの先端は天井を切って高くした ▲修復作業完了

 

 

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