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第42回 平塚空襲 その6(その他の空襲) (2013年1月号)


 前回は空襲から避難する人々の動きをみました。今回は7月16日の空襲以外の空襲についてみていきたいと思います。
 平塚周辺で初めて米軍機が目撃されたのは、1942(昭和17)年4月18日でした。この日、航空母艦ホーネットからB25爆撃機が出撃し、東京や京浜間に大きな被害を与えたドウリットル空襲があり、この空襲に参加した飛行機が目撃されたのでした。この日は大磯町高来神社の例大祭の日であり、祭見物に来た大勢の人に目撃されました。平塚への投弾はありませんでしたが、迎撃の高射砲弾が民家に落下したという証言があります。
 1944年になるとB29爆撃機による日本本土空襲が始まりました。その最初の空襲である6月16日未明の八幡空襲前後の6月15日・18日には、平塚市民の日記に警戒警報の発令が記録されています。

湊地区での機銃掃射
湊地区での機銃掃射 1945年7月頃学校からの下校途中に米軍機からの機銃掃射に遭遇したが、木の下に逃げて難を逃れた。伏せている横で砂煙が上がっていたのが印象的だったという。(個人蔵)

 1945年2月16日、17日には硫黄島作戦の支援する米軍の艦載機が平塚に襲来し、17日の平塚駅機銃掃射では死傷者が出ました。硫黄島占領後、4月7日からは米陸軍機P51ムスタングの飛来が頻繁になり、他都市への空襲に関連したP51などによる機銃掃射空襲が多く行われるようになりました。機銃掃射の際には、下校途中の子どもも溝に身を伏せたり、垣根に潜り込んだりして身を守りました。列車への銃撃では車体の下に入って助かったという体験が語られています。
 なお、7月16日の空襲の前には連日のように米軍機の飛来、攻撃があり、「伝単」と呼ばれる米軍の宣伝ビラが投下されたとの証言もあります。また、7月16日の空襲後の7月30日には、16日の空襲に次ぐ被害を出した空襲がありました。この空襲では、日本国際航空工業平塚製作所や横須賀海軍工廠平塚分工場が主に狙われ、機銃掃射と500ポンド(250キロ)爆弾による攻撃で多くの犠牲者を出しました。
 8月7日には土屋・金目方面で米軍小型機による空襲がありました。土屋では大乗院付近に焼夷弾数発が投下、本堂や庫裏は一昼夜燃え続け、付近で女性一人が銃撃で亡くなりました。金目でも一軒が爆撃されました。日中の小型機空襲で焼夷弾を投下された例は現平塚市域ではこの他にありません。これは、厚木航空基地への爆撃帰りの「ついでの爆撃」といわれています。厚木基地への空襲は8月3、5、7、13日と頻度を増していました。

米軍の伝単 米軍の伝単
米軍の伝単(表・裏) 第二海軍火薬廠に勤務していた女性が、7月16日空襲の数日前に廠内で拾った伝単。(当館蔵)




【参考文献】
 夏期特別展図録「市民が探る平塚空襲-65年目の検証」平塚市博物館 2010年

 

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