10 相模国府を探る



●国府とは
 律令に基づいた中央集権国家は公地公民制を実現するために畿外を七道(東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道)に分け、道筋に国々を配置します。相模国は東海道に属しています。国は郡の数により大国、上国、中国、下国に分けられ、相模国は8郡(足上・足下・余綾・大住・愛甲・高座・鎌倉・御浦)からなるので上国になります。国府はその国の行政、司法、経済、文化の中心となり、都市としての組織や機能をもっています。中央から国司が派遣され、職務を遂行します。

下野国府の政庁(復元)

●相模国府を巡る諸説
 国府所在地を巡る問題は江戸時代末期(1841 年)の『新編相模国風土記稿』から出発し、多くの研究がなされてきました。
 国府所在地が記載されている書物として、平安時代初期(931〜938年)の『和名類聚抄』には「大住府」、鎌倉時代初の十巻本『伊呂波字類抄』には「余綾府」と記載されています。このことから、国府が移転したことがわかり、考古学資料と絡んで、三つの説が考えられてきました。
 一つは海老名市に相模国分寺が存在することから海老名市→平塚市→大磯町とする三遷説、二つ目は小田原市の下曽我遺跡・千代廃寺の存在から小田原市→平塚市→大磯町とする三遷説、三つ目は文献に記載されたとおりで、しかも考古学的成果から平塚市→大磯町とする二遷説があります。本書では二遷説の立場から、当初から国府は平塚に所在していたと考えていますので、次にその理由を紹介します。




●国府の所在を裏付ける素材
 平塚の国府域の8世紀前半の竪穴住居の多さは国府造営に関わるものであること。「国厨」墨書土器は全国でも最多の出土点数であること。平城京木簡や『延喜式』で相模国と武蔵国の特産物とされている「豉(くき)」を実証する「旧豉一」墨書土器が出土していること。官衙的とされる連房式鍛冶工房が発見されていること。灰釉陶器・緑釉陶器、金銅製の錠前や金属製品などが県内でも最も多く出土していること。

墨書土器「国厨」


銅製の錠前(牡金具)


佐波理匙

●相模国府は当初から平塚に
 平成16年に湘南新道関連遺跡・坪ノ内遺跡第7地点(四之宮)で発見された奈良時代前半の大型の廂付掘立柱建物は、国府所在地を示す重要な物的証拠として発表されました。この建物の発見により国府が平塚に当初から存在していた可能性がますます高くなりました。二遷説を決定づける国庁の発見が待たれます。

坪ノ内遺跡第7地点

構之内遺跡第3地点

●国府域と東海道
 国庁を中心として、周囲に曹司(行政等の事務を分掌する官衙施設や官舎)、国厨家(国の台所機関)、市、津、軍団、手工業生産に関わる工房など様々な施設が展開し、都市的景観をなす範囲が国府域です。また、構之内遺跡第3地点で西北西に延びる古代の道路が発見されました。道路幅が9mであることから東海道と考えられます。この道路は国府域の中心部を通ると予想されます。

●なぜ、平塚に国府が置かれたか。
 国府はどこに置かれても不思議ではないのですが、全国的に見ると、交通の要所に置かれるという一つの規則性が貫かれています。相模川右岸の下流域に相模国府が置かれた理由も情報伝達、人や物の移動を重視した中央政権の意思・意向が反映された結果と考えられます。


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