もたらされた高度な技術?

【渡来人(とらいじん)について】



          

現在、外国との積極的な交流が行われていますが、昔も今と同じように外国との交流が行われてきました。
特に大陸にある国(今の中国や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)にあった国)とは特に密接な交流があったと考えられています。
弥生時代の始まりごろに伝わった“米づくり”も彼らから伝えられたものでした。
これ以降もおそらく交流は続いていたのでしょうが、古墳時代の中ごろ(今から約1600年前)に訪れた渡来人たちは多くの高度な技術を伝えました。
教科書には、「設計や土木工事」、「金属加工」、「養蚕(ようさん)や織物」、「焼き物」、「仏教や文字」などが伝えられたとされています。
そもそもなぜ渡来人がこの時期に日本列島へやってきていたのでしょうか。
現在でも朝鮮半島はふたつにわかれていますが、当時は4つの国にわかれており、それぞれ戦いをおこなっていました。
戦いの状況が悪くなれば、そこから仕方なく逃げていく人々も出てきます。そうした人々が日本列島へ向かったのではないかと考えられています。
こうした当時の大陸の国々は今でいうところの「先進国」みたいなもので、進んだ技術や異なる文化を持っていました。

彼らが持っていたそうした“モノたち”は、日本列島に住んでた人々の生活や価値観を大きく変えることになるのです。
こうした渡来人たちがもたらしたものをひとつずつ解説していくのはとても大変ですので、簡単な説明にとどめておきます。
古墳時代の終わりから飛鳥時代にかけて(今から約1500年前)の時期くらいから、日本ではお寺がつくられるようになります。
お寺は仏教の関連施設ですが、こうした寺をつくるのにも建物を設計し、工事を行う必要がありますよね。
金属の使用は弥生時代から行われてきていますが、古墳時代のものはさらに派手な飾り(かざり)がついたり、新しい製法が見られたりします。
またこの時代、鉄でできた武器や道具が多く見つかります。しかし、日本列島では元となる鉄鉱石(てっこうせき)はほとんどとれないですし、
そもそも鉄を使ったものをつくる技術も乏しいものでした。当時の大和朝廷は、鉄鉱石もしくは完成された鉄の武器や道具を朝鮮半島から輸入し、
やってきていた渡来人がこうした鉄の加工や飾りをつくっていたのだろうと考えられています。
養蚕については、卑弥呼の時代(今から約1800年前)に日本列島のことが書かれた「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」の中に「養蚕していた」という記事があります。
このころにはもう養蚕を行っていたと推定されますが、これよりずっと以前に大陸のほうでは養蚕がはじまっていたとされており、
やはりこれも渡来人から伝わり、日本列島で養蚕がはじまったと考えられるのでしょう。




   

平塚でのようす

  

     

古墳時代に平塚市に渡来人は来ていたのでしょうか。残念ながらそれは定かではないようです。
ですが、渡来人がもたらした「新しい技術や文化」の影響(えいきょう)を受けてつくられたであろうものは平塚市でもみられます。

写真1
【1】万田八重窪横穴群(まんだやえくぼおうけつぐん)の写真

写真1
万田八重窪横穴群のあるところ


【1】の写真を見ると、斜面(しゃめん)にいくつもの“穴”があいているのがわかると思います。それもたくさんありますね。
秘密基地にするにはちょうどよさそうな穴ですが、あまり入ることはおすすめしません。(そもそも文化財ですので。)
この穴はいったい何なのでしょうか、実はこの穴はお墓なのです。入りたくなくなりますよね。
こうしたお墓は横穴墓(おうけつぼ、よこあなぼ)と呼ばれています。平塚市内では古墳時代の終わりごろから奈良時代のはじめくらいまでつくられたお墓です。
写真2
【2】万田熊之台横穴群(まんだくまのだいよこあなぐん)の横穴墓

【2】は別の遺跡(いせき)の横穴墓の中のようすを上から見たものです。床に石がしきつめられていますね。左側に出入口があります。その上には土器や細長い金属でできたものがみられますね。
古墳時代中ごろまでの土を盛って作ったお墓の多くは、死んでしまった人の体をほうむるための穴をつくりますが、上から下へ地面に向かって、縦方向(たてほうこう)に穴をほってつくるという方法です。
ですので一度うめてしまえば、またほり返して別の人をほうむるのはたいへんでしょう。ひとつの穴につき一回の埋葬(まいそう)が原則です。(例外はあります。)
ですが古墳時代の中ごろから、こうした「縦方向に穴をほる」方法でつくられた古墳だけでなく「横方向に穴をほる」古墳もみられるようになります。
この変化は、古墳で行う儀式(ぎしき)やお祭りのあり方にも影響を与えたと考えられています。

このような「横方向に穴をほる」ことや儀式などの変化を受けてつくられるようになったであろうお墓が横穴墓です。
「横方向に穴をほる」ことで、ひとつの穴に何人もほうむることができるということが特徴(とくちょう)のひとつです。
うめてしまった「縦方向の穴」の入り口をほり返すより、当時はあったであろう「横方向の穴」の入り口をふさぐものをどける方がかんたんそうですよね。
横穴墓も古墳にほうむられる人ほどではないかもしれませんが、“ふつうの人よりえらい人”のお墓でしょう。
そうした人をふくむ集団(たとえば家族や親戚(しんせき)など)がひとつまたはいくつかの「穴」にほうむられ、供養(くよう)されていたのでしょう。


さて、【2】の写真で、土器がみられると書きました。この土器をよく見ると灰色ですね。今まで見た縄文土器や弥生土器は茶色でしたよね。
「古墳時代の土器は灰色だったのか」とおもわれたみなさん。実は古墳時代には弥生土器の流れをくむ「土師器(はじき)」という茶色の土器があるのです。
この灰色の土器「須恵器(すえき)」も渡来人の影響を受けてつくられた土器なのです。
写真3
【3】万田八重窪横穴群でみつかった須恵器

須恵器は古墳時代の中ごろ(今から約1600年前)からみられる土器の一つです。渡来人が持っていた土器づくりの技術を用いてつくられたと考えられています。
具体的に言えば、轆轤(ろくろ)という回転する台をつかって土器の形をつくり、窯(かま)の中に入れて焼きあげます。
須恵器の表面(ひょうめん)をよく見ると、ぐるっと一周している痕(あと)が見えたりします。【3】でも何となくわかるでしょうか
「窯で焼きあげる」ことは、それまでの土器づくりとは大きく異なる点です。縄文土器や弥生土器は形をつくったら「野焼き」して焼きあげていました。
野焼きは「外」で地面に穴などをつくり、その中に土器をならべて焼きあげる方法です。外の空気とふれあいながら焼かれていきます。
これに対し須恵器は「窯の中」で焼かれます。「窯」そのものは外につくられますが、土器は窯の中にならべられて焼かれるので外の空気とあまり触れることはありません。
こうしたつくり方のちがいも、土器の色に影響をあたえます。


   

横穴墓からみつかったものは土器だけではありません。金属でできたものも多く出てくることがあります。

写真4
【4】高根横穴群(たかねおうけつぐん)から見つかった馬具


【4】は馬具(ばぐ)と呼ばれる金属でできたものです。馬に取り付ける金具や飾りですね。
今はもうさびてしまっていますが、当時はとても精巧(せいこう)なものだったでしょう。
いろいろな説がありますが、そもそも日本列島に「馬」が出現するのは古墳時代中ごろではないかともいわれています。
大陸のほうではすでに「馬に乗る」風習があったので、この時期の渡来人が「馬」を連れてきたのでしょう。
写真5
【5】馬具に残る“金”


この馬具のつくられた時の姿を思わせる部分がほんの少しですが残っています。
【5】の黄色い丸で囲まれた部分を見てみてください。何やら光っていると思いませんか。
この光っているものは「金」です。今でいうところの「金メッキ」のような作り方でこの馬具はつくられているのです。
渡来人たちの持っていた技術の高さがみられる資料ですね。

今回ここに紹介したものは実際に“渡来人がつくったものか”どうかははっきりとはしていません。
日本列島に住む人々が渡来人たちから教わり、つくったという可能性も十分にあります。
ですが、どれも渡来人たちからの影響を受けてつくられたものであるということに変わりはありません。
当時の社会も現在と同じように、外国との交流があり、そこから多くのことを得る機会もあったのです。