平塚市博物館公式ページ

ひらつか図鑑

平成16年4月15日〜平成19年3月15
ひらつか図鑑
「広報ひらつか」博物館コラムへ

 第1回 ハマニガナの復活−再び見られる砂浜の花
 第2回 金星の太陽面通過−地球と金星の約束の場所
 第3回 湘南平の波食台(はしょくだい)−波に削られた平らな山頂
 第4回 学徒勤労動員の日記−火薬廠(かやくしょう)に動員された少年たち
 第5回 コハクオナジマイマイ−増えてきた西日本のカタツムリ
 第6回 十五夜のお月見−十五夜今年は9月28日
 第7回 高度な技術の鍛冶集団−国府に付随した鍛冶(かじ)工房
 第8回 祭囃子(まつりばやし)−甲高く響く太鼓の音
 第9回 七国峠・遠藤原−火砕流(かさいりゅう)がつくった大地
 第10回 小正月−豊作を祈る大切な日
 第11回 原口遺跡と五領ヶ台貝塚−縄文遺跡の親子関係
 第12回 道中日記−西海地村(さいかちむら)栄次郎の参詣(さんけい)旅行
 第13回 春祭り−昔ながらの心温まる祭り
 第14回 ソウシチョウ−森林にすむ色鮮やかな鳥
 第15回 学校日誌−空襲直後の第二国民学校
 第16回 神輿(みこし)−由緒ある江戸時代の神輿
 第17回 セイコヤナギ−川に風格を添える大木
 第18回 富士山と太陽−富士山頂に沈む夕日
 第19回 平塚海岸の石ころ−石ころのふるさとを探る
 第20回 人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)−顔が描かれた謎の土器
 第21回 破船報告書−難破船にみる須賀の船運
 第22回 カノープス−見るとめでたい老人星
 第23回 達上池(たんじょういけ)−氾濫(はんらん)で生まれた三つの池
 第24回 塚越古墳−市内唯一の前方後円墳
 第25回 スミレ−市街地に復活した春の花
 第26回 家門凧(かもんだこ)−天高くあがれ、家門凧
 第27回 八幡の地形−川除稲荷(かわよけいなり)と鮫川池(さまがわいけ)
 第28回 五領ヶ台貝塚−自然とともに生きた縄文人
 第29回 戦時下の日記−戦争の行く末を案じた『句日記』
 第30回 足下の未知の世界−都市に住む「ダニ」
 第31回 星座ひろい−街にちりばめられた星
 第32回 伊勢原断層−平塚北部を貫く活断層
 第33回 相模国府に集う人々−竪穴(たてあな)建物から見えるもの
 第34回 セエトバレエ−目一つ小僧と道祖神
 第35回 立春−光の春、春一番
 第36回 最終回 幕末の村おこし−片岡村の報徳仕法(ほうとくしほう)

第1回 ハマニガナの復活−再び見られる砂浜の花

平塚海岸に咲くハマニガナ
平塚海岸に咲くハマニガナ
(撮影・故 内田藤吉さん)

 平塚市が誇る財産の一つは、なだらかな曲線を描く砂浜の海岸線が今も保たれていることでしょう。 特に、松林に接した砂浜には、春を彩る海岸植物が多く見られます。 しかし、川が運ぶ土砂が減ったために砂浜がやせてきたこと、海岸近くまで住宅地や道路が迫ってきたこと、さらには海岸を訪れる人の踏みつけの影響などが重なって、どの種類も減少気味なのは残念なことです。 かつては、一面に咲いていたハマヒルガオも現在では限られた範囲でしか見られなくなっています。
 砂浜の植物の一つに、タンポポに似た黄色い花をつけるハマニガナがあります。 ハマニガナはキク科の植物で、春から秋まで長い期間花を咲かせ、葉の形がイチョウに似ていることから「ハマイチョウ」の別名を持っています。 かつての平塚海岸には点々と生えていたようですが、減少が著しく、一時はほとんど見られないくらいになっていました。 しかし、近年、砂防用につくられている柵の中の砂地に所々で見かけるようになり、復活の兆しがあるのは、うれしいことです。
 ハマニガナは、雑木林に生えるニガナや水田のあぜ道に生えるオオジシバリなどに近縁の種類ですが、海岸という植物にとっては厳しい環境に生えるため、茎は砂地をはうように伸びて厚めの葉をつけ、花も地面すれすれに咲かせる特徴を持っています。 復活してきたこの可憐な野草を大事に見守っていきたいものです。
(平成16年4月15日掲載)

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第2回 金星の太陽面通過−地球と金星の約束の場所

金星の太陽面通過−地球と金星の約束の場所
昨年5月7日に見られた「水星」の太陽面通過。
今度は6月8日に「金星」が太陽面を通過します。

金星と地球の軌道、真横からみたところ
金星と地球の軌道、ななめからみたところ

 来月、六月八日午後「金星の太陽面通過」という現象が起きます。 これは、金星が太陽と地球の間を通過し、太陽面を黒く丸い金星が横切って行くのが見られるものです。 前に起きたのは一八八二年のことですから、非常に珍しい現象です。
 このような現象を起こす惑星は、地球より内側を回る水星と金星だけです。 そして、金星の太陽面通過は必ず六月か十二月になります。
 平面的に見ると金星はおよそ一年七か月ごとに地球と太陽の直線上に並びますが、金星の軌道が地球の軌道に対し三.四度傾いているため、太陽と重なって見えることはほとんどありません。 通常、金星は地球の軌道より北か南にずれたところにいるのです。
 しかし、その軌道も地球の軌道面を南から北へ、北から南へと二か所で横切っています。 双方の軌道が重なるちょうどその場所に来て出合うときのみ、この現象が起きます。 地球はその二つの「約束の場所」を毎年六月と十二月に通過します。
 しかし、百二十二年間、地球は二百四十二回も「約束の場所」を通過しましたが、金星はいませんでした。 一方、金星も三百九十四回通過しましたが、やはり地球と出合うことはありませんでした。 そして、長い年月を超え、ついにこの六月、出合いのときを迎えようとしています。
 この観察は太陽を見るため、特別な方法を用いないと危険です。 六月八日にはこの現象を博物館屋上から観察しますので、どうぞ、ご参加ください(時間午後一時〜六時・参加自由)。
(平成16年5月15日掲載)

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第3回 湘南平の波食台(はしょくだい)−波に削られた平らな山頂

湘南平の山頂
①湘南平の山頂

テレビ塔南側の遊歩道
②テレビ塔南側の遊歩道では、同じ標高で岩肌が続く波食台が見られる

展望台から見られる西方の山々
③展望台から見られる西方の山々

 標高約百八十メートル。 平塚八景の一つ「湘南平」の展望台からは、天気が良い日には三百六十度の大パノラマが展望でき、多くの山々を見ることができます。 西方には、伊豆の天城山や、箱根山の噴火によって生まれた明星ケ岳・金時山などの「箱根外輪山」と呼ばれる山々がそびえています。 また、富士山の手前には、矢倉岳が見えます。 そして山々の連なりは、高度を増して丹沢の表尾根に続きます。
 これらの山々を見るとき、その成り立ちを思い浮かべるといつもと違う眺めになるかもしれません。 例えば、丹沢山地は、約一千七百万年前に南の海の海底火山として生まれ、その後のプレート運動により、約五百万年前に本州へつきました。 そして、約百万年前に現在の伊豆半島が本州へ衝突したときに今のような山地が形成されたといわれています。
 さて、それでは湘南平はどのように生まれたのでしょうか。 ヒントは今でもその平らな姿から「千畳敷(せんじょうじき)」と呼ばれている頂上部分にあります。約十三万年前、この地は海の中にあり、「波食台(はしょくだい)」という波の力で平らになった場所でした。 それが、地震のたびに隆起を繰り返し、徐々に高くなり、その上に富士山の噴火による火山灰などが降り積もってできたところなのです。 今でもテレビ塔南側の遊歩道沿いには、この「波食台」を見ることができます。
 また、江の島もこの「波食台」の隆起により生まれた島です。 波打ち際には、関東大震災のときに隆起した「波食台」の岩場があります。
(平成16年6月15日掲載)

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第4回 学徒勤労動員の日記−火薬廠(かやくしょう)に動員された少年たち

永峰光さん
永峰光さん

永峰光さんの日記
永峰光さんの日記

平塚の第二海軍火薬廠に動員された少年たちの日記
平塚の第二海軍火薬廠に動員された少年たちの日記

 第二次大戦末期の昭和十九年、不足した労働力を補うため、全国の学生生徒を各地の軍需工場に動員する「学徒勤労動員」が実施されました。
 平塚へも県内外から学徒が動員され、昭和二十年一月には茨城県立麻生中学校の三年生・百四人が親元を離れ、第二海軍火薬廠に動員されました。 博物館では麻生中学校の生徒だった永峰光さん、須田三郎さん、金田要一さんが動員中に記した日記を保管・展示し、厳しい動員生活の実態を今に伝えています。
 例えば、火薬廠での作業では「眼(め)が痛くて困る」(『永峰日記』六月六日)、「のどが痛くて仕方ない」、「手が酸でぴりぴりして痛い」(『須田日記』五月七日・十日)など、火薬製造に伴う薬品被害が訴えられています。 また、与えられる食事についても「夕食は大豆汁、香々一切れ」、「汁を吸うと腹が冷たくなる」(『金田日記』三月五日・二十八日)など、過酷な労働の中、育ち盛りにはあまりに貧しい食糧事情が伝わります。 さらに、「昨夜も大空襲あり、泣くより外に仕方がなし」(『永峰日記』五月二十五日)など、度重なる米軍機の襲来に見舞われ、恐怖と無念に満ちた死と隣り合わせの生活であったことがうかがえます。
 そして、ついに七月十六日夜半の平塚大空襲では、永峰光さんは焼夷弾(しょういだん)の直撃を受け、犠牲となってしまいました。
 今年、博物館ではこれらの日記を『市民が探る平塚空襲』資料編(二)として刊行しました。 ぜひ、ご一読いただき、学徒たちの生の声から、戦争と平和について考えてみてください。
 (平成16年7月15日掲載)

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第5回 コハクオナジマイマイ−増えてきた西日本のカタツムリ

つる草の葉の上を歩くコハクオナジマイマイ(土屋)
つる草の葉の上を歩くコハクオナジマイマイ(土屋)

 土屋や吉沢の野道を歩いていると、中心部が鮮やかな黄色をしたカタツムリを見ることがあります。 この貝は、コハクオナジマイマイという名で、殻の直径は1cmくらい、田畑の周りの土手などで生活しており、カラムシの葉上で見られることが多いようです。 ときには、つる草によじ登り、ヤブカラシの花で蜜をなめていると思われる様子が観察されたこともあります。
 コハクオナジマイマイはもともと岡山県以西の西日本だけに見られた種類です。 平成十年に土屋で確認されたのが、千葉県館山市に次いで関東地方で二例目の発見でした。その後の調査で、平塚市の西部では相当広い範囲に分布していることが確認されています。 おそらく植木などについて人為的に運び込まれたものが広がったと思われます。
 コハクオナジマイマイは、きれいな外見をしていますが、畑に入って野菜を食害することがあります。 また、もともといたオナジマイマイと交雑して遺伝的な混乱を引きおこす可能性も指摘されています。 いずれにしても、こうした外来種(外国原産の種だけでなく国内のほかの地域から持ち込まれた種の場合も外来種と呼びます)の増加は好ましいことではないので、今後の動向に注意していく必要があるでしょう。
 新顔が現れた一方で、カタツムリ類は全体的には減少気味です。 こうした変化は、博物館の夏期特別展「平塚の生きもの地図」(九月四日まで、月曜日休館)で紹介しています。 コハクオナジマイマイの実物も展示していますのでぜひ、ご覧ください。
(平成16年8月15日掲載)

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第6回 十五夜のお月見−十五夜今年は9月28日

博物館から撮影した十五夜の月
博物館から撮影した十五夜の月(平成三年)

 九月二十八日は十五夜です。 平塚では縁側にススキや秋の草花、お団子やサトイモなどを供えてお月見をする風習があります。 また、昭和の初めころには、このお供えを近所の子どもたちがこっそり取ってしまっても良いことになっていたところもあったようです。 お月見にも地域差があり、たとえばお供えの種類やお団子の数など、ごくあたりまえと思っていることが、ほかの地域の話を聞くと異なるところがあり、意外な発見があるものです。 この機会に、ぜひ、いろいろな方とお月見の話をしてみてください。
 ところで、十五夜というのは旧暦八月十五日の夜のことです。 明治六年以前に使われていた旧暦は、月の満ち欠けをもとに一か月を定めたカレンダーですので、十五日といえばそれだけで毎月ほぼ同じ形の月が見られました。 ですから、十五夜のお月見は毎年八月十五日と定めておけばよかったわけです。ところが現在の暦では、日付と月の形は一致しません。 新暦採用後、お盆のようにひと月遅れにし、季節を合わせた行事もありますが、お月見の場合は月の形が大事ですので、ひと月遅らせただけでは解決しません。 おかげで、十五夜の日付は、来年は九月十八日、再来年は十月六日というように、毎年変動してしまいます。
 旧暦では、秋分の日を含む月が八月になります。 そこで十五夜は、秋分の日の直前の新月の日を八月一日とし、十五日にあたる夜と考えておけばよいでしょう。 十五夜が満月になるとは限りませんが、今年の場合はちょうど満月です。
(平成16年9月15日掲載)

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第7回 高度な技術の鍛冶集団−国府に付随した鍛冶(かじ)工房

神明久保遺跡第九地点から出土した鍛冶関連の遺物
神明久保遺跡第九地点から出土した鍛冶関連の遺物

 「しばしも休まずつち打つ響き」と童謡『村の鍛冶屋』に歌われる風景。 そんな風景が昭和十年ころの平塚にもありました。 当時、平塚には七軒の鍛冶屋があったそうです。 さらに、およそ一千百年から一千三百年前の奈良・平安時代には、四之宮から中原にかけて金属や金属製品をつくる鍛冶集団がいたようです。
 これまでの文献や考古学の成果から、この時代の四之宮周辺に「相模国府」が置かれたことが明らかにされつつあります。 国府とは古代(奈良・平安時代)の律令国家が地方を治めるために諸国に置いた役所です。 その相模国府にかかわる専業集団・官衙(かんが)鍛冶工房の跡が市内の神明久保遺跡、天神前遺跡、坪ノ内遺跡などに見られます。 これらの遺跡からは工房跡や鍛冶にかかわる資料が発見されています。
 このうち、神明中学校の南東にある神明久保遺跡第九地点では、鍛冶に関する金床石(かなどこいし)・砥石(といし)・転用取瓶(てんようとりべい)・羽口(はぐち)・金属製品・鉄滓(てっさい)・銅線などの多様な遺物が出土しています。 出土遺物を非破壊分析で調べてみると、銅関連の遺物では、溶解、箔(はく)・線の加工、そして、その製品を用いた鉄製品との加工作業がされていたことが明らかになりました。 鉄関連の遺物では鋼精錬作業や鋼からの鉄製品加工作業もされていました。 これらの遺物は高度な技術により製作されていたため、この遺跡が国府に付随した工房跡であるといわれています。
 今回紹介した資料は博物館秋期特別展「掘り起こされた平塚Ⅲ」(十一月七日まで開催、月曜日休館)で紹介していますので、ぜひご覧ください。
(平成16年10月15日掲載)

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第8回 祭囃子(まつりばやし)−甲高く響く太鼓の音

トラックの山車が整列し、太鼓の音が大音量で響き合う
トラックの山車が整列し、
太鼓の音が大音量で響き合う
(豊八幡神社の祭礼)


大太鼓、締太鼓、笛による祭囃子
大太鼓、締太鼓、笛による祭囃子
(八幡八坂神社の祭礼)

 平塚の祭囃子は、一般的に太鼓の音が甲高く、けたたましいというのが特徴です。 締太鼓の皮を限界寸前まで強く張り、それを思い切りたたいて「鳴り」を競うのが伝統です。 これを喧嘩太鼓とか競争太鼓、あるいは太鼓の競り合いと称しています。
 現在でも豊田の豊八幡神社、中原の日枝神社、北金目の北金目神社などの祭りで盛んです。 互いに負けじと、自慢の腕っ節でたたき合う太鼓の音はまるで音の洪水のようです。
 競り合いでは、「屋台」という威勢のよい曲を演奏します。 これは、通称「ハヤシ」あるいは「バカッパヤシ」といわれる曲で、市内の多くの祭りで最も一般的に演奏している曲です。 曲の構造は同じですが、たたき方などの細部は地域ごとに微妙に異なり、こうした地域性も祭囃子の魅力の一つです。
 さて、伝統的に競り合いが盛んである一方、失われつつあるものもあります。 その一つが笛と鉦の音です。 競り合いになると静かな曲は負けてしまいますし、笛を吹いても太鼓にかき消されてしまいます。 ですから、今では「ハヤシ」以外の曲を演奏する機会が減り、笛と鉦が脱落し、オオド(大太鼓)とツケ(締太鼓)の三人編成が基本になっています。
 市内で、笛と鉦の音が残る囃子に四之宮の前鳥囃子があります。 演奏する九曲すべてに笛と鉦が伴い、喧嘩太鼓とは違った趣があります。 また、田村と大神に伝わる田村囃子は系統がまったく異なり、豪快な太鼓と優雅な笛の調べがすばらしい祭囃子です。
(平成16年11月15日掲載)

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第9回 七国峠・遠藤原−火砕流(かさいりゅう)がつくった大地

びわ青少年の家の近くの高台から望んだ遠藤原の台地
びわ青少年の家の近くの高台から望んだ
遠藤原の台地


旧土屋公民館跡から遠藤原に登るがけに見える地層
旧土屋公民館跡から遠藤原に登るがけに
見える地層。
下半分には厚く積もった火砕流跡の層
(白っぽい部分)がある。

 七国峠や遠藤原は、平塚八景に数えられる市内の代表的な景勝地です。 バス停「七国峠」から十分ほど南に歩いたところに、見晴らし台があり、平塚八景「七国峠・遠藤原」の碑が立っています。 このあたりからは、かつて、甲斐、駿河、伊豆、相模、安房、上総、武蔵の七つの国が一望できたといわれています。
 七国峠の北には遠藤原の台地が広がっています。 この平らな台地は、約五万年前、箱根火山が噴火した際の火砕流が十メートルもの厚さで堆積(たいせき)し、できたものです。
 記憶に新しい火砕流に雲仙普賢岳の噴火(平成二年・長崎県)が上げられます。 雲仙普賢岳の火砕流は、噴火の翌年に溶岩ドームが崩壊し、発生したものですが、箱根火山の火砕流は、「軽石流」と呼ばれ、軽石を多量に含む高温のガス体が高速で流れたものです。 旧土屋公民館跡から遠藤原に登る途中のがけには、今でもこの火砕流の跡が見られます。 また、遠藤原では火砕流の熱で焼けた木片も見つかっています。
 箱根から遠藤原までは、約二十五Km 体積十立方Kmといわれる箱根火山の火砕流は、この長い距離を流れてきました。 さらに火砕流の跡をたどると、遠藤原の地よりもはるか遠くまで流れ、相模川を横断し、現在の大和市や横浜市西部にまで達したことが分かっています。
 冬の晴れた日は、空気が澄み、高台からは山々の稜線(りょうせん)など、遠くの美しい景色が楽しめます。 七国峠の見晴らし台からの景色も五万年前の大噴火を想像し、見渡せばいつもと違った眺めになるかもしれませんね。
(平成17年12月15日掲載)

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第10回 小正月−豊作を祈る大切な日

小正月に豊作を願って作るマユダマ団子
小正月に豊作を願って作る
マユダマ団子


小正月に豊作を願って作るケズリカケ
小正月に豊作を願って作る
ケズリカケ

 一月十五日前後の数日間を小正月といいます。 しきたりを大切にしているご家庭では、小正月にマユダマ団子の木を飾り、小豆粥(あずきがゆ)を召し上がるのではないでしょうか。
 昔は小正月にケズリカケやアワボを作る習慣もありました。 ケズリカケとはダイノコンゴウ(ニワトコ)の木を両端から中央に向けて削り、花が咲いたようにしたものです。 これを大神宮さまや年神さまをはじめ、家中の神々に供えました。 アワボも同じくダイノコンゴウの木で作り、堆肥(たいひ)の上に立てて粟(あわ)の豊作を祈りました。 マユダマ、ケズリカケ、アワボとも、作物の実りや花の咲いた様子を表し、豊作を祈願する心に基づいています。
 年神さまに供えたケズリカケは、頂部を十文字に刻んで団子を一個はさみ、十五日の小豆粥をかき混ぜる棒として用いました。 そのため粥かき棒ともいわれました。茶碗の中の粥に団子が入っていると、その年、特に幸運に恵まれるといわれたそうです。 そして、このケズリカケは神棚に上げてとっておき、五月、苗代(なわしろ)(苗を仕立てる田)に種籾(たねもみ)をまき終えた日に、氏神の御札を挿して苗代の水口へ立て、苗の無事生長を祈願しました。
 一月十四日を十四日年越しともいい、この日に食べるソバのことを年越しソバともいったように、小正月は一年の大きな節目にあたります。 十四日のドンドヤキで旧年の災厄を払い、十五日は新年の作物の豊穣(ほうじょう)をあらかじめ祝い、でき具合を占う大切な日だったのです。
(平成17年1月15日掲載)

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第11回 原口遺跡と五領ヶ台貝塚−縄文遺跡の親子関係

縄文時代の海岸線の想定図
縄文時代(約六千五百年前)の海岸線
の想定図


原口遺跡出土土器
原口遺跡出土 土器
(左:五領ケ台式土器、
 右:北裏C式土器〔東海系〕

 広川の高台にある国指定史跡「五領ケ台貝塚」。 この遺跡は今から約五千年前、縄文時代中期初頭の貝塚です。 ここからは、貝殻のほか、この時代の基準資料となる土器「五領ケ台式土器」が出土しています。 しかし、この遺跡はまだ、小規模な調査しかされておらず、実態は解明されていません。特に、同時期の住居跡が発見されていないため、集落の姿が見えてきません。 ところが、約二Km離れた同じ丘陵上には、九軒の住居跡が発見された原口遺跡(現県農業総合研究所周辺)があります。 さて、二つの遺跡の関係からどのようなことが分かるのでしょうか。
 一般に縄文人の行動範囲は半径五Kmいわれています。 五領ケ台貝塚の出土品が貝殻や土器など生活品であるのに対し、原口遺跡の出土品には、東海地方や近畿地方の土器、神津島産の黒曜石など、他地域との交流を物語る貴重な品々があります。
 縄文時代の遺跡は、大きな集落(親)を中心にして、周辺に小さな集落(子)が展開します。 親は交易や情報収集・発信の拠点になり、子に物資や情報を流します。 この関係から見ると、原口遺跡が「親」で五領ケ台貝塚が「子」とみなすことができます。
 かつて、相模湾の入り江は現在の広川のあたりにありました。 そこに立地した五領ケ台貝塚は原口遺跡の出先的、あるいは季節的な集落であったと考えられます。 一方原口遺跡には、黒潮を利用して遠方と交流する「大拠点基地」であった可能性が秘められているようです。
(平成17年2月15日掲載)

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第12回 道中日記−西海地(さいかちむら)村栄次郎の参詣(さんけい)旅行

西海地村栄治郎の日記帳 西海地村栄治郎の日記帳
旅の総費用は約72両。
西海地村栄治郎の日記帳には、くすり124文など、道中での買い物の記録が残る

西海地村栄治郎の伊勢金毘羅参詣

 江戸時代は交通網の整備などにより、庶民の間に旅行が普及した時代でした。 庶民の旅行の多くは農閑期である旧暦の一~二月(現二~三月)にされ、寺社参詣がその中心でした。
 博物館では西海地村(現岡崎)の栄治郎が慶応三年(一八六七年)に記した道中日記を保管しています。 日記には行程や道中で購入した日用品、お土産などが細かく記され、当時の旅の様子を知ることができます。
 栄治郎の旅は四人連れで、出発は一月十五日でした。最初の目的地は伊勢神宮で、東海道を通り、一月二十五日、伊勢山田に到着。 翌日、神宮へ参詣しました。
 伊勢参詣後は奈良、大坂を通り、海路で金毘羅に参詣(二月四日)。 その後、赤穂に上陸し帰路となります。しかし、伊勢までの往路と違い、伊勢以後の旅路では多くの名所に立ち寄っています。 特に京都・大坂には二泊し、奈良・大坂では案内人を頼んで神社仏閣を訪れています。 そのほか能勢や秋葉山などにも足を延ばし、帰宅は二月二十七日になりました。 こうした周遊型の旅は現代日本人の旅行のあり方にも通じるものがあります。
 なお、栄治郎が宿泊した旅籠の多くは「浪花講」の旅籠でした。 浪花講とは良心的で信頼できる旅籠を指定した旅館組合で、こうした民間の制度が庶民の旅を支えていたといえます。
 この道中日記は、三月十九日から博物館で開催する特別展「近世平塚への招待」で展示します。ぜひ、お越しください。
(平成17年3月15日掲載)

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第13回 春祭り−昔ながらの心温まる祭り

大島のダルマ山車
大島のダルマ山車
(昭和24年
・大島西の清田勇氏蔵)


北金目神社宵宮の太鼓の競演
北金目神社宵宮の
太鼓の競演

 テンテレスクテンテンテケ。 日が暮れると、太鼓の音が響いてきませんか。 春祭りの真っ最中ですね。 神社の例大祭を春・夏・秋に分けると、平塚市は春祭りが最も多く、四月だけで全体の過半数を超えます。 今回は、これから楽しめる春祭りのいくつかを紹介しましょう。
 北金目神社は、四月十五日宵宮の午後七時ころから始まる太鼓の独演会が聞きものです。 北久保・中久保・大久保の三地区に分かれて太鼓の音と技を競います。 十六日夜には、太鼓のたたき合いと演芸会が交互に進行し、昔ながらの心温まるお祭りが味わえます。
 四月二十九日は城所貴船神社の祭礼です。 城所はかつて近隣十か所ほどに祭囃子(まつりばやし)を伝授したといわれ、豊富な演奏曲目が特色です。 山車の巡行中には二か所で城所囃子が披露されます。 また、五月三日の片岡神社は、大神輿(おおみこし)の渡御(とぎょ)で盛り上がります。
 市内のお祭りは昭和三十年代後半から四十年代の一時期廃れますが、戦前戦後のころは大変盛んでした。 戦後は青年団による素人芝居が流行し、村には芸達者なスターがいたことでしょう。 北金目では青年が鼻に白粉を塗り、女物の派手な着物を着て太鼓をたたいたといいます。 四月十七日がお祭りの大島では、昭和二十年代に上写真のようなダルマ山車をひいていました。
 博物館で夏に開催する特別展「平塚のお祭り」では、こうした往時のお祭りの写真を紹介したいと思います。 写真をお持ちの方は博物館までご一報ください。
(平成17年4月15日掲載)

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第14回 ソウシチョウ−森林にすむ色鮮やかな鳥

ソウシチョウ
岩肌のコケをついばむソウシチョウ
(岡根武彦さん撮影/清川村宮ケ瀬にて)

 スズメより一回り大きめの体に五色の羽毛をまとったソウシチョウ(相思鳥)に出合うと、「こんな派手な鳥が野外にいるの?」とだれでもびっくりしてしまうでしょう。 見かけから想像できるように、この鳥は野鳥ではなく、中国原産の飼い鳥です。 しかし、飼われていたものが逃げ出して野生化し、今では本州から九州の広い範囲で見られ、数も非常に多くなってきています。
 外来生物は、どちらかというと都市部から人里にかけて多いのですが、ソウシチョウの場合は、山地、それも下生えにササの茂った落葉樹林に好んで住み着きます。 つまり、自然度の高い森林に入って優占種になるので、在来の野鳥への影響が懸念されています。 県内でも箱根や丹沢の山地でよく見かけるようになっており、秋や冬には丘陵地に下ってきます。
 この鳥が、平塚で初めて記録されたのは一九九六年十一月のことでした。 博物館の庭に七羽の群れが現れ、「キョロキョロ」などとにぎやかに鳴いてから、飛び去っていきました。 その後も、吉沢や土屋でしばしば声が聞こえたり姿が見られたりしています。 今まで見つかったのは、秋から冬でしたが、これから数が増えれば、春や夏の繁殖期にも観察されるかもしれません。
 市内で、この鳥を見かけた方はぜひ、博物館までお知らせください。 また、吉沢で見つかったソウシチョウの剥製(はくせい)標本を五月十五日から一か月間、博物館で展示します。 ぜひ、実物をご覧ください。
(平成17年5月15日掲載)

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第15回 学校日誌−空襲直後の第二国民学校

平塚大空襲で焼失した平塚市第二国民学校
平塚大空襲で焼失した平塚市第二国民学校
(現港小学校)の校舎
写真提供:港小学校


平塚市第二国民学校の学校日誌
平塚市第二国民学校の学校日誌

 昭和二十年(一九四五年)七月十六日の平塚大空襲から今年で六十年になります。 博物館ではこの空襲の翌日から記された平塚市第二国民学校(現港小学校)の『学校日誌』を保管しています。 日誌は宿日直当番の教員が書いたもので、空襲直後の学校の様子がうかがえます。
 日誌初日の七月十七日は「宿直者ハ防空壕(ぼうくうごう)内ニテ執務」という状況で、死亡六人・負傷四人の「戦災児童」が確認されています。 十八日には「罹災(りさい)後ノ職員室造リ」が始められ、その後、二宮・大磯・旭などの国民学校の教員・児童もかけつけて「焼跡整理」(七月二十六日)、「校舎間の元の作物栽培地ノガラス拾ひ」(同三十一日)などをした記録があります。
 空襲は十七日以後も見られ、七月三十日には「機銃掃射ノタメ職員室ニ軽微ナル被害」があり、八月十五日までに警戒・空襲警報のない日は二日間だけという緊迫した日々が続きました。 なお、七月二十八日には海宝寺(幸町)境内など四か所を授業場とし、雨天は休校にする授業計画が定められています。 これらの記録からは、頻繁な警報や艦載機の襲来におびえる中、焼け跡整理に追われ、満足に授業ができない空襲直後の青空教室の実態をかいま見ることができます。
 博物館では、七月十六日(土)午前十時から、「リレートーク・市民が探る平塚空襲」を開催し、空襲体験者の証言と平塚の空襲と戦災を記録する会の調査研究成果から平塚大空襲の実態に迫ります(参加自由)。
(平成17年6月15日掲載)

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第16回 神輿(みこし)−由緒ある江戸時代の神輿

入野八坂神社の神輿
市内最古の年銘が
確認されている
入野八坂神社の神輿


寺田縄日枝神社に安置されている神輿
寺田縄日枝神社に
安置されている神輿

 平塚市には江戸時代に製作されたことが確実な神輿が少なくとも七基あります。 七基とは、平塚春日神社、平塚八幡宮境内若宮八幡社、八幡八坂神社、四之宮前鳥神社、中原日枝神社、寺田縄日枝神社、入野八坂神社、土屋熊野神社の神輿です。
 このうち、寺田縄の神輿は慶応二年(一八六六年)に三之宮比々多神社から譲り受けたものです。 太い胴と短い屋根、屋根の四隅についた一木造りの太い蕨手(わらび)など、現在の三之宮神輿とも共通する特徴を備えています。 外観ががっしりとしているのは、神輿を倒しても壊れにくいようにつくられたためです。 畑に神輿を倒すと豊作がもたらされるといわれ、寺田縄では昭和三十年ころまで、麦畑へ入り、神輿を倒すことがありました。 今では、由緒あるこの神輿を神宝として安置し、代わりに氏子が六年の歳月をかけてつくった同寸同型の神輿を担いでいます。
 また、入野の神輿は内部に「文化九年壬申三月吉日再興之 西岡田村」の墨書があり、市内で最古の年銘(ねんめい)が確認されている神輿です。 もとは西岡田村(現寒川町岡田)八坂神社で文化九年(一八一二年)に再興した神輿で、明治二十七年(一八九四年)に修復し、同二十九年ころに入野へ売られたと伝えられています。 台輪(だいわ)に格狭間(こうざま)を彫り、朱を施すなど、一般の相州神輿には見られない特徴を備えています。
 この二基の神輿は、博物館で開催する夏期特別展「平塚のお祭り」(三面参照)で展示します。どうぞ、ご鑑賞ください。
(平成17年7月15日掲載)

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第17回 セイコヤナギ−川に風格を添える大木

渋田川と鈴川の合流点にあるセイコヤナギ
渋田川と鈴川の合流点にある
セイコヤナギ(上)とその葉形(下)

セイコヤナギの葉形

 鈴川や花水川の土手に、ヤナギの大木があります。 この木は幹周りが1メートル以上もある落葉樹で、三月にほかの木に先駆けて、美しい黄緑色の新芽を吹かせます。 葉や若い枝に毛が生えていること、大木になることなどから、博物館ではコゴメヤナギではないかと考えてきたのですが、いくつかの疑問が生じ、ヤナギ類の専門家に調べていただいたところ、シダレヤナギの品種で「セイコヤナギ(西湖柳)」だということが分かりました。
 シダレヤナギは、中国原産で、姿が美しいことから古い時代に日本に持ち込まれ、各地で栽培されています。 「銀座の柳」というのもこの種類ですし、「柳の下の泥鰌(どじょう)」とか「柳に飛びつくカエル」など、柳といえばシダレヤナギを連想するほどポピュラーな存在になっています。 そのイメージが強すぎるので、平塚にも六種類ほどある野生のヤナギを見ても、だれもヤナギの仲間とは思わないほどです。
 セイコヤナギは、そのシダレヤナギの品種ですからやはり中国渡来のものと考えられており、京都でよく栽培されています。シダレヤナギに比べると、葉が大きいこと、枝がそれほど強くはしだれないことが特徴です。
 平塚のセイコヤナギは、五、六本現存しますが、どれも同じような太さなので、ある時期にだれかが一斉に植えた可能性が高いでしょう。 外国原産とはいえ、川の景観に風格を添える大木です。 河川工事などで少なくなってきましたので、残った株は大事にしていきたいものです。
(平成17年8月15日掲載)

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第18回 富士山と太陽−富士山頂に沈む夕日

平塚海岸から富士山と夕日を望む
平塚海岸から富士山と夕日を望む
(平成17年9月8日撮影)

 「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉どおり、秋分の日前後は気候の変わり目で、太陽の高さ、昼の長さが日に日に低く、短く、変わっていきます。 日の入りの方位もそれまで真西よりも北よりだったのが真西近くに沈みます。 この時期は、平塚で太陽が富士山頂に沈むのが見られるときでもあります。
 昭和五十四年に当時田村にお住まいの方が「自宅から秋分の日に太陽が富士山頂に沈むのが見える」とテレビのニュース番組に投書したところ、その模様が放映されました。 その方が寄贈された放映フィルムは現在、博物館に保管してあります。 映像を見たところ、秋分の日より少し早めに取材に来たようで、太陽は富士山麓(さんろく)に沈んでいました。 実際にいつ沈むかを計算したところ、確かに春分、秋分の時期に平塚から富士山頂に日が沈むことが分かります。
 市内のいくつかのポイントでの計算結果は次のとおりです。
●東海道線から海岸近く 9月6日~9日
●浅間町から土屋を結ぶ近辺 9月10日~13日
●四之宮から北金目を結ぶ近辺 9月15日~20日
●田村から真田を結ぶ近辺 9月21日~24日
 日が前後しているのは、見る場所の広がりと閏年(うるうどし)による時間のずれを考慮したためです。 日の入り時刻は、九月中旬が午後五時四十五分ころ、下旬が午後五時三十分ころですので、日の入りの三十分くらい前からご覧になるのがよいでしょう。
(平成17年9月15日掲載)

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第19回 平塚海岸の石ころ−石ころのふるさとを探る

平塚海岸
相模川系の石
相模川系の石
酒匂川系の石
酒匂川系の石

 平塚海岸は砂浜海岸ですが、よく見ると、石ころが堆積(たいせき)しているところがあります。 さて、これらの石ころはどこから来たのでしょうか。
 海岸にある石ころの多くは山から川を下り、たどり着いたものです。 平塚海岸には、主に酒匂川と相模川から運ばれた石ころがあります。 石ころは二つの川の流域の地質を反映しており、多くは両河川に共通の緑色の凝灰岩(ぎょうかいがん)類や胡麻塩(ごましお)状のトーナル岩類ですが、さらによく見てみると、次のような特徴的な石を見つけることができます。
 酒匂川によって運ばれた石ころの中には、緑色の変成岩(へんせいがん)や灰色の安山岩(あんざんがん)、茶褐色の玄武岩(げんぶがん)があります。 これらは丹沢山系の岩石や箱根火山、あるいは富士山の噴火でできた溶岩です。 同じ種類の石ころが国府津、二宮、大磯、平塚と次第に小さくなって広がっているのは、石ころが潮(しお)の流れによって東に流されてきたことを示しています。 酒匂川によって運ばれた石ころは茅ヶ崎海岸から東ではほとんど見ることはありません。
 一方、相模川によって運ばれた石ころの中には、茶色っぽい砂岩(さがん)や黒色の粘板岩(ねんばんがん)類があります。 これらは、丹沢山地の北にある小仏山地からもたらされた砂岩や泥岩(でいがん)です。 これらの石ころは花水川から西ではほとんど見ることはありません。
 博物館では、このような石ころのふるさとを探る特別展「大地をめぐる石の旅」(十一月二十日まで、月曜日休館)を開催しています。 ぜひ、ご覧ください。
(平成17年10月15日掲載)

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第20回 人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)−顔が描かれた謎の土器

人面墨書土器
六ノ域遺跡(現大野小学校付近)から発見
された人面墨書土器。土器の表面には、
まゆ・目・鼻・口が墨で描かれています
(博物館2階に展示中)。

 平塚の地に相模国府が置かれたことが明らかにされつつあります。 国府とは、奈良・平安時代の律令国家が地方を治めるために置いた役所です。 四之宮周辺の遺跡からはこの相模国府の所在を裏付ける様々な遺物が発見されています。 その一つが「人面墨書土器」です。
 人面墨書土器は奈良・平安時代の遺跡から、極めてまれに発見されます。 県内では七遺跡から十点が出土していますが、そのうち六点は平塚市内の遺跡から出土したものです。 この土器は表面に疫神を描き、災厄の息を吹き込んで川や溝にはらい流すという祭祀(さいし)(祭事)に使われたといわれています。
 出土した人面墨書土器の年代と、「続日本後紀」(八四○年・八四一年)に記載されている大住郡・高座郡の壬生大領(みぶのたいりょう)(郡の長官)の動向と、年代的に重なる部分があることから、地元で政治的・宗教的権威があった両郡司層がこの祭祀へ積極的に参加・関与していたものと考えられます。
 人面墨書土器の祭祀が都から直接伝わったのか、間接的に伝わったのかは分かっていませんが、伊豆国府の推定地(三島市)近くの箱根田(はこねだ)遺跡から出土した人面墨書土器と年代や器種に共通する要素が多いことから、現在のところ、そこから伝わったものと考えられます。
 その場合には、県内の分布状況から、平塚に伝わった人面墨書土器の祭祀は、伊豆半島経由の海路を使ってもたらされたものと想定されます。
(平成17年11月15日掲載)

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第21回 破船報告書−難破船にみる須賀の船運

須賀村庄兵衛船の破船報告書
須賀村庄兵衛船の破船報告書(博物館蔵)
須賀村庄兵衛船の破船報告書

 旧暦の十一月(現在の十二月ころ)は、江戸時代では年貢納入の時期でした。 相模川流域の村々の年貢は、相模川で須賀に集められ、須賀から江戸へ送られました。 川と海の結節点である須賀は重要な物流拠点でした。 しかし、当時の須賀の船運を知る史料は少なく、その実態は明らかではありません。 ただ、廻船が破船した際の報告書が関係する村にわずかに残されており、そこから須賀の船運の一端をうかがうことができます。
 嘉永七年(一八五四年)十一月二十六日、須賀の廻船が毘沙門村(三浦市)沖で難破し、船主庄兵衛は荷主の松延村・真田村名主に被害を報告しました。 それによると、廻船は三百五石積みで、荷主の多くは年貢米を送る村の名主たちでした。 年貢米の量は各村とも一~二十九俵ほどで、破船リスクの分散のため小分けして送られたものと思われます。 この事故は萩園村(茅ヶ崎市)の『和田篤太郎日記』(茅ヶ崎市史史料集四)にも「三崎鼻毘沙門辺田中明栄丸破損いたし候由申承候」と記録され、庄兵衛の姓は田中、廻船の名は明栄丸であったことが分かります。
 年貢米以外の積み荷では、豊田村市左衛門が柏屋七郎右衛門へ送った小麦百俵が目をひきます。 この柏屋七郎右衛門とは野田(千葉県)の醤油醸造(しょうゆじょうぞう)家で、現在のキッコーマン株式会社の前身の一つです。 平塚地域の小麦は良質な醤油原料として尊ばれ、海路野田へと送られたのでした。
 破船報告書が当時の船運と平塚の名産を教えてくれます。
(平成17年12月15日掲載)

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第22回 カノープス−見るとめでたい老人星

湘南平の駐車場付近から望むカノープス
湘南平の駐車場付近から望むカノープス
(平成17年1月17日午後11時ころ撮影)

 一月中旬の夜十時ころ、「カノープス」という星が南の水平線近くに見えます。 星の明るさはマイナス〇・七等で、天空で一番明るいおおいぬ座のα星シリウスに次ぐ明るさです。
 平塚からは、南の水平線すれすれ、高度二度の高さにやや赤みを帯びて見えます。 低い空に現れる星なので、平塚より緯度が数度高い東北地方の北部や北海道からは見ることができません。 カノープスとは、ギリシャ神話に登場する水先案内人の名前ですが、日本ではオウチャク星、メラ星といった和名があります。 中国では「南極老人星」あるいは「老人星」とも呼ばれ、七福神の寿老人になぞらえ、一目見ると長生きができるめでたい星と言い伝えられています。
 本来は白い星であるカノープスが赤みを帯びて見えるのは夕日が赤く見えるのと同じ原理ですが、昔の人はその姿をほろ酔い気分の寿老人に見立てたのかもしれません。
 カノープスは、平塚では、海岸や湘南平のような南の水平線が見通せる場所から見ることができます。 しかし、気象条件が限られており、好天で大島が見えるような澄み切った日で、水平線まで晴れ渡ったときでなければ、きれいに見ることはできません。 カノープスが真南に昇る前後一時間くらいが最もよく見える時間帯です。カノープスが真南に昇るのは、一月中旬では午後十時ころ、二月上旬では午後八時ころです。 一年の初めにめでたい星を探してみてはいかがでしょうか。
(平成18年1月15日掲載)

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第23回 達上池(たんじょういけ)−氾濫(はんらん)で生まれた三つの池

丸い湖面に周囲の風景を映し出す達上池
丸い湖面に周囲の風景を映し出す達上池

丸い湖面に周囲の風景を映し出す達上池
陸軍による地形図(明治24年)
青色が現在の達上池、緑色が消滅した池

 市民病院の南側、達上ケ丘公園に「達上池」があります。 この池は現在ヘルシーロードとなっている旧下田川の低地の出口に位置しています。 江戸時代の天保年間(一八三○年〜一八四三年)に徳川幕府により編纂(へんさん)された「新編相模国風土記稿」などの歴史資料から考えると、この付近にはかつて、三つの池があったようです。 現在の達上池はそのうちの一つで、「新池」と呼ばれ、文化五年(一八○八年)か文政十一年(一八二八年)の洪水で形成されたものと考えられます。
 陸軍による明治二十四年(一八九一年)の地形図には、現在の池の西側と南側に一つずつ計三つの池が、明治末期から昭和二十二年(一九四七年)の地形図には現在の池とその西側に一つの計二つの池が描かれています。
 達上池の西側百ほどのところにあった池は「古池」と呼ばれ、昭和二年(一九二七年)に埋め立てられたようです。 また、平塚農業高校南西側にあった池は 「瓢箪池(ひょうたんいけ)」と呼ばれていました。この池は文化八年(一八一一年)の平塚宿絵図には描かれていますが、明治四十一年(一九○八年)の地形図に見られないことから、それ以前に埋め立てられたようです。
 この三つの池はいずれも旧玉川(現渋田川)の氾濫によってできた河跡湖(かせきこ)で、達上池周辺が幾度となく玉川の洪水を被ったことを伝えてくれます。 現在でも達上池南側では、一段高くなっている地が見られ、上平塚側への氾濫を防ぐためにつくられた土手の名残をとどめています。
(平成18年2月15日掲載)

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第24回 塚越古墳−市内唯一の前方後円墳

塚越古墳の上ではもうすぐ桜が開花
塚越古墳の上ではもうすぐ桜が開花します
(茂木真一さん撮影)


4世紀後半の土器
この古墳から出土した4世紀後半の土器

 塚越古墳は北金目字塚越にあり、北金目台地の東の先端、不動院の裏に位置しています。 これは市内に現存する最古の古墳で、唯一の前方後円墳です。
 この古墳は昭和三十四年に調査され、人骨・朱・管玉(くだたま)・鉄製品などが出土しました。 現存する部分の全長は四十五メートルで、平成六年以降の調査では、出土品から見て、四世紀ごろのものと推定されます。 また、被葬者は少なくとも金目川流域を支配していた有力な豪族(首長)と考えられます。
 真田・北金目の発掘調査が進み、この古墳の歴史が明らかにされつつあります。 最近の調査では、塚越古墳が出現するまで、この地域に弥生時代後期から古墳時代前期の集落が継続的にあったこと、しかも、その集落の墓群も同時に造られ続けたことが分かってきました。 さらに、台地周辺の谷戸や低地には広大な耕地が展開しています。 この金目川流域の豊かな生産基盤こそが、有力豪族と塚越古墳の出現を導いたと考えられます。
 さて、古墳時代の墳墓には、中央の支配体制のもと、前方後円墳を頂点として、前方後方墳、円墳、方墳など、墳形と規模による階級制が形成されています。
 塚越古墳は最近の周溝の試掘調査結果から前方後方墳とする見解もあります。 しかし、大正九年の記録に残っている図と形状から、塚越古墳は前方後円墳とするのが妥当と考えます。 今後、塚越古墳の被葬者と中央政権との関係をどのようにとらえるかが課題となっています。
(平成18年3月15日掲載)

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第25回 スミレ−市街地に復活した春の花

アスファルトのすきまに根付いたスミレ
アスファルトのすきまに根付いたスミレ
(達上ケ丘)

 スミレといえばタンポポやレンゲとともに、代表的な春の花として親しまれている野草です。
 一口にスミレと言っても多くの種類があり、神奈川県全体では約三十種、平塚でも八種が見つかっています。 その中でも「スミレ」という名の種類は、濃い紫色をした大きな花をつけ、スミレの中のスミレといった存在です。
 「スミレ」は草丈の低い明るい草地に生える種類で、一昔前まではどこでも見られましたが、だんだん数が減り、絶滅が心配されるほどでした。 しかし、近年になり、市街地で復活の兆しを見せ始めました。 それも駐車場の隅とか、舗装道路の路傍などで、アスファルトのすきまにたくましく根付き、群生している場所も少なくありません。
 なぜ、スミレが復活してきたのかは難しい問題ですが、都市的な環境に適応した、特に乾燥に強い系統のものが生まれてきたのかもしれません。 また、その分布を広げるにあたって、大きな役目を果たしたと考えられるのはアリの存在です。 スミレ類の種子には脂肪分の塊がついており、アリが好んで運ぶことが知られています。 舗装された場所でも、ちょっとしたすきまには、地下に通じるアリの巣の入り口があるものです。 そのアリの働きで、スミレは市街地に分布を広げていったのではないでしょうか。
 都市的な環境にも、何とか生き続けている動植物があり、そこにも生きもの同士のつながりが見られるのです。
(平成18年4月15日掲載)

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第26回 家門凧(かもんだこ)−天高くあがれ、家門凧

家紋凧
大空へ舞い上がろうとする家紋凧。
最近は女の子の名前が書かれたものも
あります。

 凧あげというと、正月の風物詩と思う方が多いのではないでしょうか。 元々、正月に凧をあげるのは江戸の風習で、日本各地を見ると正月以外の季節にあげていた地方が多いのです。
 神奈川県から東海地方にかけては、四月中旬から五月が凧あげのシーズンでした。 その理由の一つは、この時期は南風が強く吹き上げ、凧あげに適していることです。 ゴールデンウィークには、糸切り合戦で有名な静岡県浜松市の喧嘩(けんか)凧や、県内では相模川の河川敷で座間市と相模原市の大凧あげが開かれ、観光客で賑(にぎ)わいます。
 そしてもう一つの理由が、端午の節供との結び付きです。 神奈川県や東海地方では、男の子の初節供のお祝いに近所の若者たちが凧を作って贈り、凧あげをする習慣がありました。 平塚市内でも、家紋と男の子の名前を入れた家紋凧を若者たちが作ってあげていました。 天高く凧があがる様子を子どもの健やかな成長になぞらえ、同時に家も栄えるようにとの願いが込められていたのです。
 市内では、家紋凧を贈る習慣はほとんど途絶えてしまいましたが、近年、横内や大島で家紋凧の保存会が作られ、田んぼで大凧をあげる様子を目にすることができます。 相模川付近でも凧あげをする人をよく見かけます。 初夏の真っ青な空を背景にどこまでも高く家紋凧をあげていると、いつしか童心に返り心が晴れ晴れとしてきます。 凧あげは、子どもから大人まで楽しめる爽快(そうかい)な遊技なのです。
(平成18年5月15日掲載)

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第27回 八幡の地形−川除稲荷(かわよけいなり)と鮫川池(さめがわいけ)

中央の森が川除稲荷
写真中央の森が川除稲荷。
かつての砂州の縁にあたる「崖」は写真
手前の部分と国道で分断されている。

 東八幡三丁目の国道一二九号沿いに川除稲荷(かわよけいなり)があります。 この稲荷は天文九年(一五五〇年)の相模川の大洪水の後に建てられたと言い伝えられ、国道より数メートル高い位置にあります。 この辺りは、平塚の市街地を造っている砂丘列の東端にあたり、国道を隔てた西側にその続きの高まりをみることができます。 八幡から四之宮にかけては、このような砂丘の東縁に当たる場所に高さ二〜四メートル程の崖(がけ)が南北に連なっています。
 三千年ほど前、海岸線がこの辺りにあったころ、砂州列は東へ延びて現在の寒川町付近にまで達していたと考えられます。 その後、相模川がこの砂州列を削って現在の河口へ流れ、このような崖が生まれたのです。
 相模川が砂丘列を削って流れた証拠として、かつて、川除稲荷の東、八幡小学校の南に鮫川池(さまがわいけ)と呼ばれる池がありました。 この池は四之宮を流れていた慈眼寺堀と、八幡の北から流れていた鮫川との合流点にあった池で、明治二十四〜四十年代の地形図に認められます。 北東から南西方向に延びた池で、当時のことを記した「大野誌」によれば、東西一四〇メートル、南北三十三メートル、深さ六〜七メートルとされ、相模川が氾濫(はんらん)した際にできた「河跡湖(かせきこ)」と考えられます。
 鮫川池からは、川がさらに下流に流れ、馬入の北で相模川に注いでいました。 また、鮫川池は、大正十二年(一九二三年)の関東大地震で隆起して干上がったといわれ、現在ではその面影を見ることはできません。
(平成18年6月15日掲載)

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第28回 五領ヶ台貝塚−自然とともに生きた縄文人

眼下に海を望む丘陵地
眼下に海を望む丘陵地。
約五千年前、五領ケ台の台地からは
こんな景色が望めたのでしょう。

 広川にある縄文時代の遺跡「五領ケ台貝塚」からは、土器や石器、貝、獣骨などが多数見つかり、当時の生活の様子を垣間見ることができます。
 この時代、道具はすべて身近にある粘土や石、木、骨などを素材にして作っていました。 食料は四季に応じて木の実や植物の採集や、狩猟・漁労で確保していましたが、生活に必要な分だけをとり、乱獲するようなことはなかったようです。
 物質社会となった昨今、物や情報は豊富になりましたが、人との関係は逆におろそかになっています。 縄文人は、物はなくても家族や地域の中で深い絆(きずな)で結ばれていました。 この時代の最大の特徴は、戦争がなかったことです。 トラブルは家族や「村」で解決したと考えられます。
 上の絵は、縄文時代の暮らしの一端を市内在住の方が描いたものです。 おばあちゃんが孫に自然環境や自分の村の位置、食料のとれる場所など、様々な生活の知恵を伝えている場面です。 道具の作り方なども同様に親から子に、子から孫にと代々受け継がれていたのでしょう。
 この五領ケ台貝塚は、昭和四十七年に国指定史蹟として保存され、「五領ケ台貝塚公園」として市民に親しまれています。
 平塚市博物館では、七月二十日(木)から夏期特別展「五領ケ台貝塚ものがたり—縄文人にまなぶ—」を開きます。 わたしたちが、次の世代、その次の世代に何を伝え、何を残していくのか、縄文人の暮らしから考えてみてはいかがでしょうか。
(平成18年7月15日掲載)

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第29回 戦時下の日記−戦争の行く末を案じた『句日記』

句日記
斯波武綱氏「句日記」

平塚空襲を予感した記事
平塚空襲を予感した
昭和二十年二月十一日の記事

 戦時下の市民の様子を知るには、日記が参考になります。博物館では、当時新宿(現在の見附町付近)に住んでいた斯波武綱さん(一八九三~一九六七年)の『句日記』を保管しています。
 この日記には、斯波さんが愛好した俳句とともに、地域の様子や世情に関する思いが綴(つづ)られています。 例えば、平塚八幡宮前の藤棚越しに見える高射砲の様子を「高射砲構えし丘や藤の花」と詠み、また、配給米の減少を「精々俳句の本でも読んで、腹をすかさないやうにするより他に途はない」と嘆きます。
 しかし、この日記の大きな特徴は、軍や戦争への憂慮にあります。 軍による言論統制を「軍は国民に何も知らさず、勝手に戦争して居るがよろしからん」と憤り、ドイツのV1ロケット開発を「また戦と何の関係無い多くの人々の命が失はれるであらう。 かうして各国共新兵器を作り殺し合ってゐるうちに、終には自国で作った兵器で自国民の命を絶つことにならねばいゝが」と危惧(きぐ)します。 また、警戒警報と高射砲の轟音(ごうおん)を聞き「平塚もいつか、悲惨時が起こる前兆のやうに思はれる。 これが戦争だと思へといふならば、さうも思はざるを得ないが、戦争と云ふものハ世の中で一番の罪悪だ」と平塚空襲を予感しています。
 日記からは戦時下にありながら戦争を客観的にとらえ案じていた市民の姿がうかがえます。 この日記は、今年博物館が刊行した『市民が探る平塚空襲』資料編(三)に収載しています。 ぜひ、ご一読ください。
(平成18年8月15日掲載)

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第30回 足下の未知の世界−都市に住む「ダニ」

コンクリートの透き間に
コンクリートの透き間に
採集したコケとダニ
採集したコケとダニ

 わたしたちの生活のすぐそばにも、ひっそりと暮らしている生き物がいます。 写真は、平塚市内にある建物のタイルの継ぎ目に生えたコケと、その中から採集したダニです。
 こんなコンクリートの透き間でも、ほんの少しの土と水さえあればコケは生えることができます。 そしてコケがあれば、ダニもそこで生きることができるのです。 ほかにもトビムシ、線虫、クマムシといった動物をこうしたコケの中から見つけることができます。
 ダニというと、血を吸う、アレルギーの原因になる、農作物に害を加えるなど悪いイメージが強いかもしれません。 しかし、人に害をなすダニは、全体からみるとほんのひと握りです。 多くのダニは、わたしたちの気づかないところでひっそりと生きています。
 現在、ダニは世界で約六万種、国内では約二千種生息することが知られています。 しかし、まだまだ未知の種が多く、研究が進めば、さらに何十万種ものダニが新たに発見されるといわれています。
 平塚市にもたくさんの種類のダニが、人知れず生息しているはずなのですが、今まで平塚のダニについては調べられていないので、残念ながら詳しいことは分かりません。 ですが、まだまだ手付かずの未知の世界が足下に広がっていると思うとわくわくすると同時に、わたしたちは、自然のほんの一部のことしか知らないということを考えさせられます。
(平成18年9月15日掲載)

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第31回 星座ひろい−街にちりばめられた星

交差点の歩道
交差点の歩道

歩道の絵タイル
歩道の絵タイル

 写真は、織女星(しょくじょせい)・牽牛星(けんぎゅうせい)を含む星座、こと座・わし座を描いた絵タイルです。 紅谷町まちかど広場の前、湘南スターモールと西口通り・公園通りが出会う交差点の歩道にあります。
 七夕の街にちなみ、昭和六十年から六十三年にかけて行われたショッピングモール工事で設置されたものです。 ほかにも東は平塚駅北口バスターミナルの東側歩道から、西は中央通りまで、平塚駅北側の商店街の歩道にはさまざまな星座の絵が埋め込まれています。
 黄道星座など有名な星座絵をデザインする作品はよく見かけますが、この絵タイルは、織女星・牽牛星が高く昇るころの星空を、東にある星座は東に、南にある星座は南に、正しく配置しています。 つまり、街を歩きながら絵タイルを探せば、本当の星空をたどる感覚が楽しめる仕掛けなのです。
 しかも、さんかく座(大門通りNTTビル前)のようなマニアックな星座や、みずがめ座(梅屋周辺)のように、同じ星座なのに二種類のタイルを持つもの、また、石に異なる色の石をはめ込んでデザインしたもの(平塚駅西口のいて座・てんびん座)、色違いタイルの配列で表現したもの(かんむり座)などバリエーションがあり、ちょっとした宝探し「星座ひろい」が楽しめます。
 博物館の「星まつりを調べる会」では、これまでに二十三星座を「発見」しました。 その場所は、開催中の博物館の特別展「里に降りた星たち」の中で、本日、十月十五日より公開します。
(平成18年10月15日掲載)

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第32回 伊勢原断層−平塚北部を貫く活断層

岡崎台地の西縁
鈴川の土手から望む岡崎台地の西縁。
そこには伊勢原断層が走っている。

 平塚市には、今後も継続して活動することが予想される活断層がいくつかあることが分かっています。 その一つ「伊勢原断層」は、岡崎の台地(伊勢原台地)の西側の縁、大地と鈴川が流れる低地との境にあります。
 台地の西縁に続く直線的な崖(がけ)がこの断層の存在を示しています。 断層はさらに北方へと延び、伊勢原市日向から厚木市七沢を通り、清川村煤ヶ谷に至ります。
 伊勢原断層の活動については、東京大学地震研究所や神奈川県によって調査が実施されています。 その結果、この断層は東側が西側に対して隆起する「逆断層」と呼ばれるものであることが分かりました。
 岡崎地区で断層をまたいで行われたボーリング調査では、地表から十五メートルほどは湿った泥炭質の層で、その下の海抜〇メートル以深は貝殻を含む砂地の海成層でした。 断層を挟む二地点の地層を比べると、海成層の上面や泥層中に挟まれる火山灰の位置が一.六メートルほど食い違っています。 この差は断層による変位と考えられています。 また年代測定から、六千年〜一千百年前の地層を変位させている事が明らかになりました。 そして、江戸期の宝永年間に降った火山灰の高さには変化がないので、平安期以降江戸期以前に断層が活動したと推定されています。
 その後の調査から伊勢原断層は一回の上下変位量が一.五メートル〜一.七メートル、活動の間隔が四千〜七千年程度。 そして、最新の活動時期は五世紀以後、十八世紀初頭以前と推定されています。
(平成18年11月15日掲載)

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第33回 相模国府に集う人々−竪穴(たてあな)建物から見えるもの

相模国府周辺の竪穴建物の様子
相模国府周辺の竪穴建物の様子
(作画霜出彩野さん)


当時の兵士の姿を再現
当時の兵士の姿を再現
(資料提供福島県文化財センター
白河館)

 十一月十一日、中央公民館で開催したふるさと歴史シンポジウム「復元!古代都市平塚〜相模国府を探る〜」は大盛況でした。 このシンポジウムでは、四半世紀にわたる調査から相模国府が平塚にあったということがほぼ確定できました。
 かつて、現在の平塚を中心とした地に存在した相模国。 その人口は約十万人と推定されています。 当時、国には政務を行う最高責任者として中央から国司が派遣されました。 国司が政務を行った場所を国府といい、国の下に置かれた郡や郷を統括しました。 国の業務には国司四等官と呼ばれる役人のほかに、雑員として六百五十人程の人々が携わっていたと考えられます。
 平塚の地に相模国府が成立した八世紀前半には、国府の政庁などの掘立柱(ほったてばしら)建物以外に、周辺には最低でも八百軒の竪穴建物があったと想定されます。 そして一軒に三人が住んでいたと考えると、約二千五百人が暮らしていたことになります。
 竪穴建物は、各地から国府の建設に動員された農民や、土木・建設・鍛冶(かじ)に携わる職人、市場や港で働く人、軍団の兵士など、様々な職種の人々の住居だったと考えられます。
 国府は政治・経済・文化の中心であり、多くの人が行き交う情報交換の場でもありました。 その国府が平塚に置かれた最大の理由は、相模川と相模湾に面した水陸交通の要衝であったことです。 相模国府には平塚の未来を考える一つの素材があるのではないでしょうか。
(平成18年12月15日掲載)

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第34回 セエトバレエ 目一つ小僧と道祖神

セエトバレエ根坂間
セエト(写真)を
燃やして厄を払うから
“セエトバレエ”/根坂間

 昨日、一月十四日は、市内各地で正月飾りを燃やす火が上がり、団子を焼く子どもたちでにぎわったことでしょう。 セエトバレエ、ドンドヤキ・ドンドンヤキ、ダンゴヤキと呼ばれる道祖神のお祭りです。 この火にあたると健康になり、団子を焼いて食べると風邪をひかないといわれます。 どうして火をたくと無病息災の御利益があるのでしょうか。
 こんな話があります。 十二月八日には「目一つ小僧」という妖怪(ようかい)が家々を訪れ、来年病気にさせる子どもたちの名前を帳面に記し、道祖神に「二月八日に取りに来るから預かっておいてくれ」と言い帳面を預けて帰ります。 人々は道祖神の家を作って火事にしてしまえばよいと考え、十四日にセエトバレエをします。 二月八日に小僧が来ると、道祖神は、「家が火事にあって帳面も全部燃えてしまった」と言って帰ってもらうという話です。 また「セエトバレエは帳面を燃すのが目的の行事」、「人間の身代わりに道祖神の家を焼く」といった伝承もあります。
 目一つ小僧は病気をもたらす疫病神であり、帳面に象徴される病気の種を焼けば一年間健康に暮らせるというわけです。 新年をすがすがしく健やかに迎えるため、旧年の災厄を道祖神に集めて焼き滅ぼすのがセエトバレエです。 さらに言えば、人の身代わりに焼かれた道祖神が火とともに新たな力を備えてよみがえり、新年の豊穣(ほうじょう)をもたらすという死と再生の祭りとも考えられます。
(平成19年1月15日掲載)

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第35回 立春−光の春、春一番

総合公園の梅
総合公園の梅も見ごろを迎えています

 二月四日は二十四節気の一つ『立春』、十九日は『雨水』と暦の上では春です。
 立春は太陽の位置が春分の日の太陽位置である春分点から太陽の通り道である黄道上を数えて三一五度、雨水は三三〇度となる日です。 黄道上の太陽位置が変わるにつれて、昼の南の空での太陽の高度は三八度から四七度へと昇っていきます。 日の光は正月のころに比べ強くなります。 このさまを「光の春」と表現したのでしょう。
 昼の長さも着実に長くなっています。 平塚では二月の初めは日の出が午前六時四十二分、日の入りが午後五時十分、昼の長さは十時間二十八分だったのに対し、二十八日には日の出が午前六時十五分、日の入りが午後五時三十七分、昼の長さは十一時間二十二分となり、一か月間のうちに五十四分も延びたことになります。
 平塚は春先に雪が降ることが多いのですが、それも春のしるしといえます。 南岸を進む低気圧に北東からの冷たい風が吹き込み、雪をもたらします。 低気圧が北のほうを通ると平塚では南風が吹き込み、「春一番」となります。 春一番は「立春から春分までの間に毎秒八メートル以上の南よりの風が吹き、最高気温が前日よりかなり高くなった場合」と定義されています。
 梅が開花しはじめるのもちょうどそのころで、横浜地方気象台の観測では、開花日が昨年は二月十八日、平年は二月七日となっています。 今年は暖冬だったので、梅も桜も早そうです。
(平成19年2月15日掲載)

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第36回 最終回 幕末の村おこし−片岡村の報徳仕法(ほうとくしほう)

三才報徳権量鏡
報徳仕法の事業内容を記録した
「三才報徳権量鏡」


大澤小才太肖像
大澤小才太肖像

 薪(まき)を背負い読書する金次郎像で有名な二宮尊徳は、荒廃した村や領主財政の改革を指導した江戸時代後期の農政家です。 彼の改革方法は「報徳仕法」と呼ばれ、市内では当時の片岡村を中心に南金目村・真田村で実施されました。
 片岡村では、江戸時代中ごろから耕作地の放棄や人口の減少などで村の荒廃が進みました。 地主で割元名主を務める大澤市左衛門(おおさわいちざえもん)・小才太(こさいた)父子はこれに悩み、天保九年(一八三八年)、二宮尊徳に村おこしの指導を願い出ました。 尊徳は、荒廃の原因は貧富間の不和にあるとし、大澤家に貧者救済の責務を説き、報徳仕法が始まりました。
 仕法は大澤家が資金を拠出して行われ、村人への無利息金の貸し付けや助成金の給付、無年貢耕地の貸与などが実施されました。 これにより村人の生活は安定し、人口は増え、農業の生産性は上昇しました。
 また、村外では大澤家親類の地主・商人らに家政再建資金が融資されました。 彼らも仕法をするようになり、報徳仕法のネットワークが作られていきました。 そして、嘉永五年(一八五二年)、「克譲社(こくじょうしゃ)」という結社を作り、村を超えた地域おこしに取り組みました。 このネットワークからは小才太の弟で、箱根・小田原地域の近代化に尽力した福住正兄(ふくずみまさえ)が育っています。
 博物館では、三月十七日(土)から片岡村の報徳仕法を取り上げた特別展「幕末の村おこし」を開催します。
ぜひ、お越しください。
(平成19年3月15日掲載)

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