「平塚村と淘綾(ゆるぎ)郡大磯
村浦境争論裁許絵図」
元禄5年(1692年)9月
【平塚郷土文庫蔵】
「花水川河口」
平塚市の地図を見て、花水川右岸(大磯側)の唐ケ原が平塚市域であることを不思議に思う方も多いのではないでしょうか。
江戸時代の初期、花水川河口一帯は川の蛇行とはん濫が激しい湿地帯でした。
慶長15年(1610年)の古文書によると、人々はここに萱(かや)を生やしたり、「馬はなちば(放牧場)」にしたりして利用していたことがわかります。
しかし、はん濫により川筋が不安定なため境界が不明確で、平塚と大磯の間でたびたび境界争論が発生しました。
元禄4年(1691年)、大磯の者が浦境(海の境界)を越えて平塚の海で鮗(このしろ)(コハダ)をとっているとして境界争論が発生しました。
裁判の結果、花水川の旧河道である「細沼(ほそぬま)」が両村の境であるとする平塚の主張が認められ、そこから海の方へ見通した線が浦境となりました。
その裁許絵図を見ると、細長い旧河道に沿って境界を示す黒線が引かれているのがわかります。
そして、これが現在の平塚市と大磯町の境界となりました。
つまり、花水川がはん濫し、流れを変えた旧河道が境界とされ、今に伝わっているのです。
博物館では花水川も含めた金目川水系の総合的な特別展「金目川の博物誌」を11月30日(日)まで開催しています。
ぜひ、お越しください。
(平成20年11月15日掲載)