平塚市博物館公式ページ

博物館モノ語り

平成26年4月4日〜平成29年3月3日
博物館モノ語り
「広報ひらつか」博物館コラムへ
 第1回 家康ゆかりの茶碗(ちゃわん)
 第2回 アカウミガメの剝製
 第3回 上ノ入(かみのいり)遺跡の敷石住居
 第4回 M69油脂焼夷弾の弾筒
 第5回 地球外生命へのヒント
 第6回 タブノキの埋もれ木
 第7回 海底火山の枕状溶岩
 第8回 高根の双体道祖神
 第9回 オデッサ隕石(いんせき)
 第10回 真土大塚山古墳の出土品
 第11回 炭火の置きごたつ
 第12回 大堤決壊図(おおつづみけっかいず)
 第13回 火山からの噴出物
 第14回 黒点の観察スケッチ
 第15回 有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器
 第16回 紙芝居 おもいでのなつ
 第17回 礎の碑
 第18回 SDSSアルミプレート
 第19回 平塚にいたナウマンゾウ
 第20回 湘南にいたジョーズ
 第21回 鎌倉時代の鐙(あぶみ)
 第22回 御祓大麻(おはらいおおぬさ)
 第23回 ヤイシ
 第24回 中原酢の酢甕(すがめ)
 第25回 金目川修復事歴書上
 第26回 プラネタリウム投影機
 第27回 深海の花畑
 第28回 コメアゲザル
 第29回 宿内軒別畳数坪数書上帳
 第30回 穴が開いた土器
 第31回 宙(そら)を巡る流れ星
 第32回 ペンシルロケット
 第33回 県の石
 第34回 長寿の星 カノープス
 第35回 縄文のタイ
 第36回 最終回 御殿飾りのお雛(ひな)さま
 このコンテンツは「広報ひらつか」の記事のアーカイブです、
 記事の内容は基本的に当時のものなのでご注意ください

※このページは、平塚市の広報紙『広報ひらつか』に当館が執筆連載した記事(文と写真)をアーカイブしています。
 内容は断りのない限り掲載当時のものですのでご注意ください


第1回 家康ゆかりの茶碗(ちゃわん)

葵御紋付御茶碗
葵御紋付御茶碗(個人蔵)。
上が葵紋と松。下は鶴と亀。

 1590(天正18)年7月、小田原を拠点とする戦国大名・北条氏が豊臣秀吉に敗れ、関東の戦国時代が終わりました。 その後、関東の大部分は徳川家康の領国に。 家康が江戸城に入ったのは同年8月1日と一般にいわれます。 ここに関東の近世が幕を開きました。
 関東を領国として以降、徳川家康は江戸と京都・駿府(すんぷ)との往復や鷹(たか)狩りなどでしばしば平塚市域を訪れました。 そのため、市内には中原御殿や金目川の大堤(おおつづみ)(御所様堤ごしょさまつづみ)など、家康ゆかりの史跡や言い伝えが数多く残されています。
 そうした家康とのゆかりを示す資料の一つに片岡の旧家宮川家に伝わる「葵御紋付つき御茶碗(あおいごもんつきちゃわん)」があります。
 宮川家の伝承によれば、徳川家康の関東入国の際、大磯の六所神社から吉沢まで進んだ家康一行を、先祖の宮川家嗣(いえつぐ)が片岡まで案内し、家康は宮川家に止宿したといいます。 また、止宿中に逃げ出した家康の鷹を、宮川家嗣が機転を利かせて取り戻して家康を喜ばせたともいいます。
 この茶碗は、徳川家康が世話になったお礼として宮川家嗣に与えたものと伝えられ、胴には葵の紋と松、鶴・亀などの絵柄が描かれています。 1839(天保10)年に作成された、相模国内の家康ゆかりの事跡を紹介した地誌「相中留恩記略(そうちゅうりゅうおんきりゃく)」にも、この茶碗の絵が描かれています。
 この茶碗は、博物館で5月11日(日)まで開く春期特別展「水と生きる里 金目の風土とその魅力」で展示しています。
(平成26年4月4日掲載)

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第2回 アカウミガメの剝製

アカウミガメ
アカウミガメ 縦約95cm×横約70cm

カメの足跡
写真2 カメの足跡

 この剝製は、平成6年8月に龍城ケ丘の海岸に流れ着いたアカウミガメの死体から作製しました。 平成10年の展示替えで博物館の展示室に登場しました。 現在、2階常設展示室で公開しています。
 ウミガメの最大の特徴はなんといっても、手足がひれ状になっていることでしょう。 上手に泳ぐことはできますが、池や川にいるカメのようには歩けません。 そのため、産卵で砂浜に上がると独特の足跡(写真2)が残ります。
 平塚海岸では、年に数件アカウミガメの産卵があります。 平成20年以降は24年を除いて毎年産卵が確認されています。 6月~8月の夜に海岸にやってきた母親ガメは、砂浜に卵を産みます。 卵はおよそ2カ月でかえり、夜中に海に向かいます。 平塚海岸で産卵が確認されたら、なるべく自然の状態に保つようにしています。 波打ち際に産んでしまったときだけ、少し内陸に卵を移します。
 私たちがアカウミガメと出会うことがあったら、どうすればいいのでしょうか。 産卵中の母親ガメは非常に神経質ですので、驚かさないようにしましょう。
 卵からかえった子ガメが夜に、生まれた場所から海まで移動する間にさまざまなことを学習すると考えられています。 懐中電灯やカメラのフラッシュなどの光は、子ガメの成長に悪影響を与える可能性があります。 子ガメを見つけたら、光を消して手を触れず、自力で海まで移動する様子を、そっと見守ってあげてください。
(平成26年5月2日掲載)

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第3回 上ノ入(かみのいり)遺跡の敷石住居

上ノ入遺跡の敷石住居
復元した上ノ入遺跡の敷石住居

発掘調査中の敷石住居趾
発掘調査中の敷石住居趾

 文化公園の駐車場から博物館正面入り口へ向かうスロープの脇に、いくつかの屋外展示があります。 その中の一つ、縄文時代の敷石住居を紹介します。
 この敷石住居は、岡崎にある上ノ入遺跡で昭和51年に発掘されたものを、博物館の敷地内に移設して復元しました。
 上ノ入遺跡は岡崎台地の中央部にあり、遺跡の南部には岡崎小学校があります。 昭和49年から51年にかけて岡崎小学校の校舎新築工事に伴う発掘調査が4回実施され、縄文時代から弥生、古墳、歴史時代にわたる各時代の遺構や遺物が出土しました。 中でも縄文時代中期〜後期(4500年前~3000年前)の集落跡からは有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)や炭化した植物など、当時の生活を知る貴重な資料が出土しています。 縄文時代の竪穴住居址(たてあなじゅうきょし)は10軒確認されましたが、そのうち2軒が敷石住居(しきいしじゅうきょ)でした。
 建物としては敷石の上に骨組みが組まれ、屋根をカヤなどで葺(ふ)きます。 しかし、他の竪穴住居と大きく異なる特徴は、1カ所を突き出させた「柄鏡形(えかがみがた)」に作り、床には平らな石を敷き詰めている点です。 中央には「炉」が作られ、突き出した部分は建物の出入り口に当たると考えられます。
 こうした柄鏡形の平面を持つ竪穴住居は、縄文時代中期の終わりから後期にかけて関東地方から中部地方を中心に作られました。 この住居が特殊な祭りに使われたのか、一般的な住まいであったのか、まだまだ謎に包まれています。
(平成26年6月6日掲載)

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第4回 M69油脂焼夷弾の弾筒

M69油脂焼夷弾の弾筒
M69油脂焼夷弾の弾筒

 1945(昭和20)年7月16日深夜、平塚は米軍のB29爆撃機133機による空襲を受けました。
 この空襲の死者は確認できるだけで328人、被災戸数7678戸の被害が出ました。
 米軍の「作戦任務報告書」には、この空襲でM47油脂焼夷爆弾(ゆししょういだん)4万1706本、M50テルミット・マグネシウム焼夷弾40万6010本の計44万7716本が平塚に投下されたと記録されています。*
 M47は爆薬で油脂をまき散らす爆弾、M50はテルミット(酸化鉄とアルミニウムの還元)反応でマグネシウムを燃焼させる焼夷弾です。 M50焼夷弾は平塚への投弾数の9割を占めますが、これは対ドイツ戦を目的に開発されました。
 M69油脂焼夷弾は米軍が日本向けに開発した焼夷弾です。 信管に包まれた弾筒と呼ばれる部分に、ゼリー状の油脂を封入していました。 東京大空襲でも使用されました。 ただ、作戦任務報告書による限り、平塚には投下されていないことになっています。
 しかし、伊勢原市の見附島では、M69油脂焼夷弾の弾筒が見つかっています。
 この直径8cm・長さ49cmの弾筒は現在、平塚市博物館の常設展示室で見ることができます。
 また、M69油脂焼夷弾の存在を示唆する複数の証言が、空襲体験者から聞かれています。 米軍記録にはありませんが、実際には平塚にもM69油脂焼夷弾が投下された可能性があります。
 この、市博物館のM69油脂焼夷弾は、空襲体験者の証言とともに、公的な文字資料には表れない平塚空襲の実態を考える上で、貴重な資料です。
(平成26年7月4日掲載)
*現在(2024年)は死者362人以上。M47油脂焼夷弾は6951本、焼夷弾の合計は41万2961本とされています。

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第5回 地球外生命へのヒント

DNAの模型
DNAの模型

 生命とは、いったい何でしょうか。 生きているとはどういうことなのでしょうか。 私たちは、身の回りにあるものを生物と非生物に簡単に分けることができます。 ところが、「生物とは何か。 生物の定義とは」と聞かれると、すんなりと答えられる人は少ないのではないでしょうか。
 夏期特別展「ぼくたちはひとりぼっち? 地球の外に生命を探して」では、地球外生命(=宇宙人)を科学的に考えます。 地球以外の太陽系天体に生命はいるのか? ほかの惑星系に地球のような惑星は存在するのか? 生命が存在できる惑星の条件とは何か? これまでどのように地球外生命探しが行われてきたのか……。 これらの問いに答えるには、冒頭の「生命とは何か」という、根本的な問題について考えなければいけません。
 特別展の入口では、答えを出すためのヒントを用意しています。 写真はその中の一つ、DNAの二重らせん構造の模型とDNAを構成するリン酸・糖・塩基の分子模型です。 DNAは、私たちが持っている形質を子孫に伝えるための遺伝物質。 地球上のほとんど全ての生命はDNAを遺伝物質として利用しています。 そこに生命の定義を考えるヒントが隠されているかもしれません。
 スケールが大きく哲学的な話になってしまいましたが、地球外生命を探すことは自分たちの存在を見つめ直すこと。 特別展では人類が想像した地球外生命も登場します。 夏のひととき、宇宙に潜む同胞たちに、思いをはせてみませんか。
(平成26年8月1日掲載)

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第6回 タブノキの埋もれ木

博物館1階で展示しているタブノキ
(写真①)博物館1階で展示しているタブノキ

昭和39年に見つかったタブノキ
(写真②)昭和39年に見つかったタブノキ 2024年現在博物館2階に展示中

 博物館の受付前にある展示「博物館にようこそ」の中に、クスノキの仲間の常緑高木「タブノキ」の埋もれ木があります(写真①)。 これは昭和39(1964)年の平塚駅西側の中央地下道工事のとき、深さ5.1メートルの砂層から見つかったものの一部です。 長さは4メートルほどありました(写真②)。 鑑定したところ、樹齢は300年ほどで、放射性炭素で年代を測定すると、約2000年前に埋没したことが分かりました。 このタブノキは約2000年前の海岸の漂着物で、当時、東海道線付近に海岸線があったことを物語っています。 これほど大きな流木は、普段打ち上げられることはありません。 台風や地震などの大きな自然現象により土石流や土砂崩れが起こって、相模川あるいは金目川を経て、海へ運ばれたと考えられます。
 平塚駅付近から北側は、土地の高さが次第に低くなっています。 東海道線付近は、ちょうど海岸に砂利が打ち上げられた高まり(砂州)の頂部に当たります。 タブノキの年代から、この砂州は2000年前以降に作られたことになります。 東海道線から現在の海岸線までは1.4Kmあるので、単純に計算すると、1000年で700メートル、海岸線が動いたことになります。
 このタブノキの埋もれ木が、過去の海岸線や地形の変遷を物語っているのです。
(平成26年9月5日掲載)

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第7回 海底火山の枕状溶岩

早戸川に見られる枕状溶岩
❶早戸川に見られる枕状溶岩

玄倉産の枕状溶岩
❷玄倉産の枕状溶岩

高根で出た枕状溶岩
❸高根で出た枕状溶岩

 「枕状溶岩」とは、横断面が枕を積み重ねたように見える溶岩です(写真❶)。 海底火山から玄武岩溶岩が海中に流れ出た際につくられます。 博物館の2階展示室には、山北町玄倉(くろくら)から採取した枕状溶岩を展示しています(写真❷)。 断面を見ると、三つの「枕」の周辺部は海水と接触したため結晶せずガラス質となり、黒ずんでいます。 丹沢山地には、こうした枕状溶岩が早戸川、布川、玄倉川などの谷に何カ所も認められます。 かつて丹沢が海底火山の集まりであったことを物語っています。 丹沢の枕状溶岩の年代は1700万~1400万年前であることが明らかになっています。 しかし、現在の場所に海底火山があったわけではありません。 当時、丹沢は三宅島など伊豆諸島の一部の火山島として生まれたと考えられます。
 湘南平の麓、平塚市高根の沢にも、枕状溶岩があります(写真❸)。 この標本は一つの大きな枕で、曲面が特徴的です。 測定の結果、約1100万年前の溶岩だと分かりました。 丹沢の枕状溶岩より新しい時代まで、海底火山活動が行われたことを示しています。 高根の枕状溶岩も丹沢と同様に、伊豆諸島の一部の火山島として形成されました。
 その後丹沢は、フィリピン海プレートに乗って北上し、500万年前に本州(北米プレート)に衝突し、現在地にたどり着きました。 平塚周辺の地域が地盤変動の激しい理由も、フィリピン海プレートが北米プレートに衝突しているからにほかなりません。
(平成26年10月3日掲載)
*この記事は転載に伴い一部修正しました。

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第8回 高根の双体道祖神

高根の上高根の双体道祖神
高根の上高根の双体道祖神

 高根の上高根にまつられている道祖神には、「元禄(げんろく)8年乙亥(きのとい)天12月吉日」の紀年銘が彫られています。 西暦にすると1695年で、市内に280基現存する道祖神の中で、紀年銘の最も古いものです。
 このように2体が並び立つ道祖神を双体道祖神といい、市内に102基現存しています。 頭を丸めた僧形で、手は合掌しています。 高根の道祖神は、僧形で左右同形という、江戸時代初期の道祖神の特徴を、良好な状態で保っている貴重な石仏といえます。
 江戸時代中期になると、頭に烏帽子(えぼし)や冠をかぶる神像が増えます。 江戸時代後期には、片方はまげを結い、もう片方は髪にかんざしを挿す像が造られ、男女の違いが表現されるようになります。
 「道祖神」などの文字だけが彫られた石碑を文字碑といい、市内に111基現存しています。 これは江戸時代後期〜現代に、数多く造られました。 1神だけが彫られた像を単体像といって22基あり、神田地区に多く見られます。 このほか、石祠(せきし)や五輪塔の道祖神もあり、その形と姿はさまざまです。
 たくさんの石仏を調べていくと、造られた時代や、地域による特色が見えてきます。 石仏に彫られた像や銘文を通して、先人たちの思いや暮らしぶりの一端を知ることもできます。
 博物館の秋期特別展「平塚の石仏 3058の祈りと願い」では、11月30日まで、高根の道祖神をはじめ、信仰目的で造られた市内の石造物260点余りを、写真や実物、複製資料で展示しています。
(平成26年11月7日掲載)

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第9回 オデッサ隕石(いんせき)

オデッサ隕石の断面図
オデッサ隕石の断面図

 この石は、今から5万年ほど前、現在のアメリカ合衆国テキサス州オデッサ市に落ちた隕石です。 落下時の衝撃で、幅180メートルにも及ぶ巨大なクレーターが生まれました。 見た目はなんの変哲もない鉄の塊ですが、その断面をみると網目状の模様が見えます。 鉄やニッケルを多く含む鉄隕石でよく見られる、「ウィドマンシュテッテン構造」という結晶構造が作り出した模様です。
 この模様は正八面体の形をした結晶の切断面に現れ、切り方によって異なる模様が生じます。 この隕石の場合、正八面体の面と平行に切断されているため、三角の形が浮かび上がっています。 隕石を鏡のように磨き上げ、表面に希硝酸を塗ると、ニッケルに乏しいカマサイトという鉱物が溶け、逆にニッケルを多く含むテーナイトという鉱物が残ります。 この構造は、太陽系誕生初期に隕石の持っていた熱が、100万年に数度というゆっくりとした割合で冷却され、形成されます。 人工的に作ることができないので、隕石が本物かどうかの証明にもなります。
 隕石は、鉄隕石のほかに石質隕石、石鉄隕石の3種類に分類することができます。 石質隕石の中で特に球状の粒子を多く含むコンドライトは隕石全体の約6割を占め、熱による変成作用を受けていないため、太陽系が形成されて間もない頃の記憶を今でもとどめています。 地球や太陽系の歴史が46億年であることも、地球の岩石からではなく、宇宙から降ってきた隕石の年代測定によってもたらされた知見なのです。
 オデッサ隕石は、博物館3階プラネタリウム前の星のひろばで展示しています。
(平成26年12月5日掲載)

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第10回 真土大塚山古墳の出土品

真土大塚山古墳の出土品
写真左から、柳葉形の銅鏃、変形四獣鏡、ガラス玉と碧玉製の管玉、
水晶製ソロバン玉と勾玉

 真土大塚山古墳は、海岸線から高地と低地が繰り返される市域砂州砂丘列の最も高い場所に築かれていました。 現在の真土大塚山公園の南側にあたります。 相模国域で唯一、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を出土した古墳として極めて重要な遺跡ですが、今はその姿を見ることはできません。
 三角縁神獣鏡は、古墳時代の初めに近畿地方の有力者が同盟の証しとして各地の豪族に配ったと考えられる青銅製の鏡です。 真土大塚山古墳に葬られた人物は、相模国でいち早くヤマト政権と結びついた人物と推測することができます。
 昭和10年、樹木を抜く作業中に、偶然銅鏡が出土し、調査が実施されました。 調査では鏡・直刀・銅鏃(どうぞく)・巴形(ともえがた)銅器などが出土し、帝室博物館(現在の東京国立博物館)が購入・収集しました。
 昭和35年には開発事業で砂丘全体を削り、平地にする計画がありました。 当時の調査では、柳葉形の銅鏃、変形四獣鏡、ガラス玉と碧玉(へきぎょく)製の管玉(くだたま)、水晶製ソロバン玉と勾玉(まがたま)が出土しましたが、古墳の形を特定することはできませんでした。
 出土品は先の三角縁神獣鏡に比べて、やや年代の新しいもので、二つの時期にわたる埋葬が想定されました。 このときの出土品は現在、市博物館が収蔵し、公開しています。 平成22年には市指定重要文化財に指定しました。
 大塚山古墳周辺の砂州砂丘には他にも多くの古墳が存在したと伝えられていますが、市街化の進展とともに削られてしまいました。 砂丘の王とその後継者らが眠る「真土古墳群」は、私たちに何も語ることなく、地上から姿を消したのです。
(平成27年1月2日掲載)

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第11回 炭火の置きごたつ

炭火の置きごたつ
主に昭和30年代まで使われていました

 やぐら式電気こたつが発売されたのは、昭和32年です。 ちょうど、平塚市が金目村と合併して現在の市域ができあがった年に当たります。
 電化される以前のこたつは、熱源に木炭を使っていました。 四方に枠が付いたやぐらの中に素焼きの火入れがあり、そこへ炭を入れました。 やぐらに足が当たっても、やけどの恐れはありません。 正面の枠は扉になっており、火を調節するために手前へ引いて開けますが、押すと火入れにぶつかり、開かない仕組みになっています。
 やぐらは一尺(約30cm)角程度の小さなもので、この上へ、布団を掛けて暖まりました。 現在のように板をのせて食事などをする使い方ではなく、食後にくつろぐ時などに使用しました。
 床や畳の上にやぐらを置くタイプのこたつを置きごたつといいます。 床下に炉を切ってやぐらをのせるタイプは掘りごたつといい、いろりの上にやぐらをのせる家もありました。 掘りごたつはやぐらが大きいため、食事をする場になりました。
 写真の置きごたつは、夜、寝る前に、布団の足元へ入れて暖めるために使われていました。寄贈者によると、7人兄弟だったので、暖まったら順々に次の布団へ入れていったそうです。 アンカのような使い方がされており、寄贈者もこの置きごたつを「アンカ」と呼んでいました。
 博物館の寄贈品コーナー「白鷺家が語る くらしの今昔」では、置きごたつをはじめ、冬の寒さをしのぐために使われていた道具を、3月1日(日)まで展示しています。
(平成27年2月6日掲載)

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第12回 大堤決壊図(おおつづみけっかいず)

大堤決壊図
大堤決壊図 縦76cm×横109cm

 市内を流れる金目川は川底が高いため農業用水に使いやすい反面、洪水が発生しやすく、記録に残るだけでも近世を通して10年に1度の割合で洪水を起こしました。
 金目川で最も多く洪水が発生した所は南金目にある大堤でした。 大堤は金目川最大の堤防で、徳川家康により普請されたとの由緒を持ち、「御所様堤(ごしょさまつづみ)」とも呼ばれます。
 大堤に被害が多いのは、金目川の旧河道をふさぐ形で大堤が構築されたからです。 大堤が決壊すると、金目川の水は旧河道に沿って東北方向に流れ出しました。
 大堤の決壊を描いたのが「大堤決壊図」です。 決壊による北金目村の耕地の被害を描いたもので、1781(天明元)年以前の作成と考えられています。 決壊箇所には「切所長五拾間」とふせんが貼られており、この時は約90メートルにわたって決壊したことが分かります。 水色の流出域に見える四角の枠には被害を受けた耕地の所持者名が記され、左上部分には北金目村の集落が描かれています。
 また、金目川の洪水被害を記した古文書には、家屋の床上浸水、農具や日用品の流失・損失、石砂の流入による作物や耕地への被害を訴えるものが多くあります。 当時、金目川周辺に住んでいた人の生活・生産の全般にわたって影響を与えたことがうかがえます。
 「大堤決壊図」は3月11日(水)~5月10日(日)に開催する特別展「天変地異 平塚周辺の自然災害」で展示します。
(平成27年3月6日掲載)

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第13回 火山からの噴出物

紡錘状火山弾
① 紡錘状火山弾

市域に堆積した火山灰の層
② 市域に堆積した火山灰の層

火砕流堆積物
③ 火砕流堆積物

 博物館の2階展示室に富士火山の山麓で収集した紡錘(ぼうすい)状火山弾が展示してあります(写真①)。 火山の噴火により放出され、特定の形状を示したものを火山弾といいます。 写真①は飛行中に回転して紡錘状になりました。
 このほか、富士火山の火山弾にはリボン状、牛ふん状などの火山弾があります。 箱根火山ではパン皮状の火山弾が見られます。こうした火山弾は火山の山麓にだけ見られます。
 火山噴出物は上空を吹く偏西風により火山の東側に厚く堆積します。 富士火山と箱根火山の東側にある平塚市では、土屋や吉沢に厚い火山灰が堆積しており、関東ローム層として知られています。 いわゆる赤土と呼ばれています。 その堆積速度は1000年で厚さ40cmになります。
 富士火山の最後の噴火は、宝永4年(1707年)の宝永噴火です。 この噴火により平塚市では約30cmの厚さで火山灰が降下しました(写真②)。 この火山灰の降下・堆積と、上流から運ばれてきた火山灰の堆積により、金目川などの河川では、川底が上昇してたびたび氾濫を繰り返し、被害を大きくしました。
 箱根火山からの噴出物では、遠藤原に見られる火砕流堆積物があります(写真③)。 約6万5千年前に起こった箱根火山の巨大噴火により発生した火砕流は、矢倉沢峠を乗り越え、南足柄市~中井町~平塚市遠藤原~平塚市岡崎を経て相模川を横断し横浜市西部まで達しました。 平塚市遠藤原ではその厚さは10メートルにもおよび、熱で炭化した木片が火砕流堆積物に含まれています。
 地層からは過去に想定をはるかに超える巨大噴火があったことを知ることができます。
(平成27年4月3日掲載)

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第14回 黒点の観察スケッチ

黒点の観察スケッチ
平成26年2月7日の観察記録

 太陽の表面に黒いシミのように見える黒点。 強い磁場が働き、内部からの熱の移動が妨げられ、周囲に比べて温度が低いために黒く見えます。 黒点の大きさや形状、数、太陽表面での出現位置は時々刻々と変わります。 太陽の自転に合わせて動いていくのはもちろんのこと、太陽の活動にも大きな影響を受けます。
 黒点は、太陽活動が活発なとき(極大期)には数が増え大型化します。 逆に太陽活動が静穏なとき(極小期)には数が少なくなり大きさも小型化して、太陽の表面に一つも黒点が見えないこともあります。
 太陽の活動は11年周期で変動します。 その変動の幅は一定ではありません。 太陽黒点を日々観察し記録することは、太陽活動を把握することでもあるのです。
 黒点観察の基本はスケッチです。 望遠鏡で太陽を投影し、黒点をなぞるように位置や形状をスケッチしていきます。 同時に数も記録します。 スケッチした後は、黒点の太陽面での緯度経度を求める、黒点群の変化を追う、など解析し、これまでに蓄積されたデータと合わせて黒点数の変化や黒点が出現した太陽緯度の分布図(蝶形図)を作成します。
 市博物館では昭和51(1976)年の開館以来およそ40年、継続的に黒点観察をしてきました。 11年の太陽活動の周期のうち、3周期以上を観測しています。 そこまでの記録が残っているのは、県内では平塚市博物館だけです。 観察の記録は、毎年開催している寄贈品コーナーの「新着資料展」で、5月13日(水)〜6月7日(日)に展示します。
 解析結果は市博物館の研究報告書「自然と文化」にも掲載しています。
(平成27年5月1日掲載)

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第15回 有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器

有孔鍔付土器
有孔鍔付土器

 市博物館の考古分野で最も有名な資料の一つが、この有孔鍔付土器(左写真)です。 市内岡崎にある上ノ入(かみのいり)遺跡で昭和51年に発掘されました。 大きさは口径が27cm、高さは約43cmもあり、縄文時代中期(4500年前~3000年前)の土器です。 聞き慣れない名前は、縁の直下にぐるりと貼り付けられた鍔状の装飾と、それに沿って開けられた穴に由来します。
 この土器の最大の特徴は表面に施された不思議な文様でしょう。 渦巻き模様を持つ胴体から手足が伸び、頭は大きな取っ手で表現されています。 この文様が何をモチーフにしているのか、見る人によってさまざまです。 ある人は人間に、またある人は亀、「く」の字に曲がった手先からカマキリを想像する人もいます。 今のところ答えは出ていませんが、ガマガエルという説が有力です。 縄文時代の人々はカエルやヘビなどを「再生」する生き物と考え、あらゆるものをよみがえらせる力を持っていると考えていたようです。
 こうした模様を施された土器は日常生活の道具というより、祭祀(さいし)に使われた特殊な器と考えられます。
 では実際に、どのように使われたのでしょうか。 太鼓、酒造りの器、種子の保存用の器などさまざまな説が出されています。 最近の研究では酒造り説や種子保存説が有力です。
 有孔鍔付土器の分布の中心は長野県や山梨県です。 山岳地域の縄文人と平塚の縄文人には、相模川を利用した交流があったことが分かります。
(平成27年6月5日掲載)

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第16回 紙芝居 おもいでのなつ

紙芝居おもいでのなつ
12枚の紙芝居で空襲を伝えます

 1945(昭和20)年7月16日深夜、平塚市は米軍による空襲を受けました。 空襲は100分間に及び、人々は頭上から降り注ぐ焼夷弾の雨にさらされました。
 博物館では空襲の実態を明らかにし、継承するため空襲体験者の証言を記録しています。 視覚的にも記録・継承するため空襲の体験絵画も集めています。
 寄贈された空襲体験絵画の一つに紙芝居「おもいでのなつ」があります。 師範学校で6カ月講習を受け、平塚市第二国民学校(現港小学校)の先生に、当時17歳でなった澁谷(しぶや)千鶴子さんの作品です。
「空襲だ。みんな、起きろ!」
 紙芝居は父親の声で飛び起きるところから始まります。 間もなく本宿郵便局近くの自宅から花水川方面へ避難をしますが、まちは火の海、道筋は逃げる人々で混雑し、子どもの泣き叫ぶ声も聞こえます。 また、頭上からは「ザーッ、ザー」と焼夷弾が雨のような音で降ってきます。
 上平塚の田んぼに避難してからは、近くに落ちる焼夷弾におびえながらも、学校の子どもたちの顔が思い浮かび、無事を祈りました。 夜が明け、自宅に戻ると家族は無事でしたが、家は燃えてなくなっていました。 悲しいのに涙が出ませんでしたが、同僚の先生が見舞いに来て声を掛けてくれたとき、「ワァーッ」と母親の胸の中で泣き出してしまう場面で紙芝居は終わります。
 「おもいでのなつ」は、絵と言葉により空襲の様子だけでなく、空襲を受けた人の気持ちも伝えています。 7月16日から開催する「平塚空襲70周年展」に展示します。
(平成27年7月3日掲載)

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第17回 礎の碑

礎の碑
博物館にある礎の碑(高さ約60cm)

 昭和20(1945)年7月16日深夜の空襲で、平塚市は灰じんに帰しました。 旧市内の学校も国民学校4校のうち3校と市立高等女学校・農業学校・商業学校・工業学校などが焼失し、子どもたちは他校の間借りや青空教室を余儀なくされました。
 戦後は焼失した学校の再建に加え、新制中学校の設置が市の大きな課題となりました。 財政的に厳しい中での学校の再建・設置は困難を極めましたが、関係者の努力や協力により資金・資材・敷地を得ることができました。
 昭和24年5月24日、旧平塚第一小学校跡地(現見附台公園)で学校建設に向けた学校定礎式が行われました。 式には市立小・中学校・高等学校の学校職員・児童・生徒全員のほか、森戸辰男前文部大臣ら来賓も出席し、参加者は1万人を超える盛大な式でした。
 式辞で、当時の柿澤篤太郎(かきざわとくたろう)市長は、大人たちが戦争で児童・生徒たちに苦労させたことを謝り、「この礎石と校旗とは平塚市の大人の全部が平塚市の子どもたちの全部に心をこめて差し出す贈り物なのであります」と演説し、出席した人々に深い感銘を与えました。
 この定礎式で校旗とともに各学校へ贈られたのが「礎の碑」です。 万歳三唱で閉幕した後、礎の碑は、子どもたちによりリヤカーで各学校へ運ばれました。
 市立商業高等学校に贈られた碑が博物館北側の屋外展示場にあります。 碑には平塚市出身の書家・田中真洲の揮毫で「礎」と刻まれています。 なお、市立商業高等学校は昭和41年に県立商業高校に移管されて、閉校しました。
(平成27年8月7日掲載)

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第18回 SDSSアルミプレート

アルミプレートと銀河分布モデル
アルミプレート(左)と銀河分布モデル

 3階展示室にある、アルミ製の丸いプレート……。 直径80cmで厚さ3mm、重さは4.5Kgです。 近付いて見ると、たくさんの穴が開いています。 これはいったい何に使われたものでしょうか。
 実は、宇宙の地図を作るために製作された、世界に1枚しかないアルミプレートです。
 宇宙には、私たちの住む地球がある天の川銀河(銀河系)をはじめ、無数の銀河が存在しています。 それらは密集したり、ほとんど存在しない空間があったりと、一様に散らばっているわけではありません。
 どこにどれだけの銀河があるのか。 宇宙における銀河分布の立体地図を作ることは、宇宙の構造や成り立ちを知る上で、とても重要です。 星空を望遠鏡で撮影すると、銀河の分布状況が分かりますが、それはあくまで2次元の情報です。 それぞれの銀河がどのくらい遠いのかが分からないと、立体地図は作れません。 そこで、このプレートを使います。
 タイトルにあるSDSSとはスローン・デジタル・スカイ・サーベイの略で、デジタルカメラと望遠鏡を使って、一定範囲の夜空を観測することです。
 まず望遠鏡で銀河を撮影します。 銀河が写っている位置に合わせて、アルミプレートに穴を開けます。 穴を開けたプレートを望遠鏡の筒に取り付けて、もう一度同じ空の領域を撮影すると、それぞれの銀河の光を取り出すことができます。 そうして取り出した銀河の光を色ごとに分けて調べると、その銀河までの距離が分かります。
 このプレートから得た距離のデータを基に、銀河分布モデルを作りました。 3階展示室でプレートと一緒に展示しています。 1枚のアルミプレートから宇宙の奥行きを感じませんか。
(平成27年9月4日掲載)

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第19回 平塚にいたナウマンゾウ

ナウマンゾウ化石の臼歯
写真① 化石の臼歯

ナウマンゾウ化石の下あごの化石
写真② 下あごの化石

 ナウマンゾウの名はドイツ人エドモント・ナウマンが1881年に横須賀で発見したことに由来しています。
 博物館の2階展示室に上吉沢・山田屋敷で産出したナウマンゾウ化石の臼歯を展示しています(写真①)。 化石が埋もれていた地層は小さな川底を埋める礫層(れきそう)で、上に重なる火山灰から、8~9万年前のものであることが分かっています。 写真①は上あごの第1大臼歯です。 同じ場所では、第3大臼歯の付いた下あごの化石(写真②)も見付かっています。
 人間の成人の歯は全部で32本あり、乳歯から永久歯に1度だけ生え代わります。 ゾウの場合は臼歯が全部で4本しかなく、小臼歯から大臼歯に6回生え代わります。 歯の大きさから、写真①は10~20歳、写真②は50~60歳の象であることがわかっています。
 ナウマンゾウは中国北部から日本にかけての温帯に、およそ36万年前から1万6000年前まで生息していたことが知られています。 平塚産のナウマンゾウは県内では最も新しい時代のものであることが注目されています。
 上吉沢の同じ場所からは臼歯のほかに、首や胸の脊椎、すねの骨、肋骨(ろっこつ)が見付かっており、同時にシカの仲間の臼歯、角片、首の脊椎、腕の骨、上腕骨なども多数産出しています。
 こうしたことから、8~9万年前の上吉沢には、不動川上流の谷あいに沼沢地が広がっていて、ナウマンゾウやシカの仲間が生息する環境であったことが分かります。
(平成27年10月2日掲載)
*この記事は、2024年現在の既知の事項に基づいて一部修正しています。

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第20回 湘南にいたジョーズ

写真1化石などを多く含んだ地層
写真1 大磯層

ムカシオオホホジロザメの歯化石
写真2
ムカシオオホホジロザメの歯化石

 大磯町の高麗山や西小磯海岸には、およそ600万年前の海に堆積した地層である大磯層が露出しています。 特に西小磯海岸の大磯層の礫岩(れきがん)層は、貝化石、サンゴ化石、脊椎動物化石などを多く含んでいます(写真1)。 貝化石を見ると、外洋に面した浅海に生息する貝と内湾に生息する貝が混在して産出します。 また脊椎動物化石も、海のクジラや魚類から、陸のサイやイノシシまでの多様な環境を示唆する生物化石が産出します。 このことから、この化石を含む礫岩層は浅海からの流れ込みによって堆積したと推定されます。
 この礫岩層からは、1800万~150万年前に生息していたムカシオオホホジロザメの歯化石(写真2)が産出し、博物館1階「博物館にようこそ」に展示しています。 ムカシオオホホジロザメは、歯が細長い三角形で、外縁がノコギリのようになっているなどの特徴から、現在生息するホホジロザメの近縁と考えられてきましたが、近年は別の分類群に属するという考えもあります。 驚かされるのはその大きさで、写真の標本は歯の付け根から先端までが11cmと、映画「ジョーズ」のモデルにもなった現生ホホジロザメの2倍以上あり、生息時の体長は8メートル超と推定されます。 現在の相模湾周辺に露出する海の地層からは、このムカシオオホホジロザメの歯がいくつも見付かっています。 この付近の海はかつて、巨大ザメが生息する、危険な海だったのかもしれません。
(平成27年11月6日掲載)
*この記事は転載に伴い一部修正しました。

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第21回 鎌倉時代の鐙(あぶみ)

馬と馬具
したながあぶみ

 下の写真は鉄製の舌長鐙(したながあぶみ)です。 鐙は乗馬の際に馬に装着する馬具の一つで、乗り手の足を乗せます。 高さ25cm、長さはおよそ35cmあります。 昭和15年ごろ、相模川に架かる馬入鉄橋の下流付近で砂利採取船による作業中に発見されました。
 足を乗せる「踏込」を長くしている舌長鐙は平安時代に成立した形態で、馬上での運動性や安定性を重視した武家を中心に使われました。 武蔵国での生産が多かったため「武蔵鐙」とも言われます。
 鐙の上部は、居木から下げられた力革に取り付けるための鉸具(バックル)になっているのですが、この資料の鉸具はちぎられたように壊れています。 劣化による破損とみられ、この鐙は、実際に使用されていたと考えられます。
 大きさ、形状ともにそっくりな鐙には、東京都御嶽神社奉納品と東京国立博物館所蔵品がありますが、いずれも鎌倉時代と位置付けられており、この資料も鎌倉時代と判断できます。 鐙は極めて実用的な道具で消耗が激しい上、消耗した場合でも鉄の材料として再利用されたとみられることから、鎌倉時代の鐙はほとんど残っていません。
 東の鎌倉と西の京都を結ぶ幹線道路と、相模川が交差する馬入地区は、鎌倉時代以降、国内随一の交通の要として多くの武士が行き交いました。 こうした地域の特性を生き生きと語りかけてくれるものなのです。
(平成27年12月4日掲載)

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第22回 御祓大麻(おはらいおおぬさ)

箱札
箱札 縦36.5cm 横13.5cm 厚さ9.5cm

 写真の箱札は厚さおよそ10cmあり、
「一万度御祓大麻
 従四位度會神主(じゅしいわたらいかんぬし)
 御師(おんし) 亀田大夫」
と記されています。 「度會神主」は、伊勢神宮の外宮(げくう)に仕えた神官のことです。 神官は御師として諸国を巡回して参宮を勧誘し、御祓大麻と呼ばれるこのようなお札を頒布しました。 伊勢神宮の御師職は明治4年に廃止されたので、写真は江戸時代の御祓大麻と推測できます。 御祓に用いた祓串(はらいぐし)が箱に納められていることから御祓大麻と呼ばれています。 写真の大麻も揺すると箱の内部で物が当たる音がします。
 神社や寺院から授与されるお札は、神棚や仏壇、床の間などに1年間まつられた後、小正月の団子焼きでおたき上げされるのが通例です。 このため、古いお札はあまり現存していません。 ところが、まれに主屋の解体時に多数のお札が発見されることがあります。
 今月の寄贈品コーナー「千枚の御札(おふだ)」で展示しているお札は、全て秦野市堀山下のある旧家に保管されていました。 タイトルのとおり1000枚を超えるお札の大半が、わら縄に束ねられた状態で天井裏に保管されていたのです。
 見付かったお札を整理すると、通常は毎年1枚だけ受ける「天照皇大神宮(てんしょうこうだいじんぐう)」の神宮大麻(じんぐうたいま)が151枚確認できました。 また5代前の当主の名が記されたお札も含まれていました。 こうしたことから、およそ150年にわたり、ためられていたお札と推測できます。
 家1軒の「千枚の御札」からは、お札の歴史や信仰した社寺の範囲などを知ることができるのです。
(平成28年1月1日掲載)

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第23回 ヤイシ

ヤイシ
たこ糸を使い、シュロ縄に石を固定します

 「湯河原驛(えき)の海の見えるホームで電車を待つて居ると、五十近くのいゝかつぷくの親爺(おやじ)さんが、二つの風呂敷包みを下げて上つて來(き)た。 さまで大きな包みでも無いのに、ふう〳〵といつて汗を拭いて居る。 やがて包みを解くのでそつと覗(のぞ)いて見ると、全部が三寸ばかりの平めな石であつた。 是(これ)を細縄で斯(こ)うい風に結はへて、地曳網(じびきあみ)の底に一つづゝ附(つ)けるのだといふ。 あんまり丸つこいと轉(ころ)がるからいけない。 (中略)この親方は平塚の網主さんであつた。 (中略)漁師は皆ヤイシと謂つて居ますと答へる」
 これは、柳田國男(くにお)が昭和18年に雑誌『民間伝承』8巻 9号へ発表した「湯河原」(『水曜手帖(てちょう)』所収)の一節です。 平成18年に操業を停止するまで、平塚の地引き網では、主に小田原市の酒匂川や早川などで拾った石を網の重りに使っていました。 海底を引きずる地引き網の重りには、凹凸のない平らな石が適しています。 丹沢の凝灰岩に比べ、箱根火山の安山岩は、川の流れや海の波の作用を受けると、丸くなりやすい性質があります。
 漁師は網の重りをヤとかイヤと言います。 語源は岩で、古くから石が漁網の重りに用いられていたことを物語っています。 現在では重りの多くが鉛や陶器に変わりましたが、地引き網のヤイシには現在でも自然の石が用いられています。 地引き網で魚を囲い込む部分をアラテといい、約200メートルの長さがあります。 アラテの上端に桐のアンバ(浮き)を付け、下端には一つのアラテに、ヤイシを24個取り付けます。
 ヤイシは博物館2階「相模湾に生きる」コーナーで展示しています。
(平成28年2月5日掲載)

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第24回 中原酢の酢甕(すがめ)

酢甕
口径63.4cm・最大幅88.6cm・高さ66cm

土中に埋められた酢甕(すがめ)
土中に埋められた酢甕(すがめ)

 江戸時代、中原宿(平塚市御殿)では「中原酢」と呼ばれる徳川将軍家御用酢を醸造していました。 写真は中原酢の醸造に用いられたと伝えられる常滑焼(とこなめやき)の酢甕で、16世紀ごろの作製と考えられています。
 酢甕は口を地面より7~8寸高くした状態で土中に埋められ、ふたをして醸造に用いられました。
 中原酢が将軍家御用酢となったのは、中原御殿前で酢屋を営んでいた佐藤金右衛門方の酢を中原代官の成瀬五左衛門が徳川家康に献上したことに始まります。
17世紀末に著された食の事典『本朝食鑑』によると、中原酢は「近代では相州の中原の成瀬氏で造られるものが第一等」と評価され、名酢として知られていました。 また、「異香奇味あり、他の企て及ばざる所」とあり、ほかではまねのできない、独特の香りと味があったようです。
 中原酢の将軍家献上は中原宿に平塚宿への人馬役負担免除の特権をもたらしました。 しかし、享保(きょうほう)8(1723)年に酢の献上が廃止され、その特権は失われました。 献上廃止の理由は、京都の製法を導入したことで田舎風の味を好んだ将軍家の不興を買ったためと伝えられています。 以後、中原酢の醸造は振るわなくなり、天保(てんぽう)期(1830~1844年)には醸造されなくなっていました。 酢甕はかつての名酢の名残を伝える証人といえます。
 この酢甕は春期特別展「ひらつかの家康伝説 由緒と地域」で展示します。
(平成28年3月4日掲載)
*中原酢は江戸時代には「成瀬酢」と呼ばれることが一般的でした。(2024年追記)

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第25回 金目川修復事歴書上

金目川修復事 歴書上
暴れ川と呼ばれた金目川は、たびたび 決壊を繰り返しました

 左の写真は金目川修復事歴書上で、金目川にある堤防の修復事業の履歴を書き上げた古文書です。
 徳川家康が平塚周辺を訪れた際に宿としていた中原御殿は、それまで休息所としていた豊田本郷の清雲寺が水害にあったことから、造営されました。 また御殿造営と同時に、南金目の「大堤」を始め、金目川通りの堤防も整備されました。 これは洪水に苦しむ人々を家康がふびんに思ったことによると言われ、大堤は「御所様御入国以来之堤(ごしょさまごにゅうこくいらいのつづみ)」とも呼ばれます。
 金目川修復事歴書上は享保(きょうほう)20(1735)年に、北金目村で作成されました。 大堤をめぐる家康の由緒が冒頭に記されており、幕府による堤防修復の継続を目指して、その実績が書かれています。 当時、幕府は財政改革の一環として土木事業削減に向けた調査をしていたのです。
 結果として、金目川の堤防修復は幕府の事業ではなくなります。 しかしその後も、地域の人々は治水に貢献した恩人として家康を敬い続けるとともに、幕府による堤防修復を主張する根拠として、金目川堤防の由緒をしたたかに語り続けました。
 金目川修復事歴書上からは、中原御殿の造営と金目川の堤防整備はセットであったことが分かります。
 もし、家康が中原御殿を造営しなければ、金目川の治水事業も遅れていたと考えられます。 現在、県内一の米どころである平塚市の姿も少し変わっていたかもしれません。
 金目川修復事歴書上は、春期特別展「ひらつかの家康伝説 由緒と地域で展示しています。
(平成28年4月1日掲載)

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第26回 プラネタリウム投影機

ラネタリウム投影機
写真①

惑星投影機
写真② 2代目のG1014。
写真①の赤丸部分が惑星投影機(写真②)です

 皆さんは「プラネタリウムを見に行く」という表現をよく使っていると思います。 この場合、皆さんが頭の中に思い浮かべているのはプラネタリウムが映した「星空」ですよね。 ですが本来プラネタリウムというのは、星を映し出す機械そのものです。 市博物館のプラネタリウムは現在3代目。 過去の機械の一部を3階に展示しています。 それらを見比べると、プラネタリウムの歴史を知ることができます。
 もともとプラネタリウム(Planetarium)は、夜空における惑星(Planet)の動きを再現するための機械でした。 2代目のG1014には、惑星と地球の軌道を表す円盤を組み合わせた「惑星投影機」が投影機本体の両端に付いています。 機械的に惑星の動きを再現するために非常によくできたシステムでした。 しかし今では、コンピューターで計算して、惑星の動きを再現しているため、惑星投影機は離れた場所に置き、それを見ても惑星の運行の仕組みは分かりません。
 星を映すための光源も変わり、2代目までは強力な電球が使われていましたが、電球は球が切れやすいという欠点がありました。 プラネタリウムで星空を見ているときに突然、星が消えたら大変です。 現在使っている3代目のパンドラはLED(発光ダイオード)を採用しています。 LEDは寿命が長いことが売りの一つです。
 ほかにもプラネタリウムには、当時の最新技術が注ぎ込まれています。 投影を見に来たときは、今の機械だけではなく、展示している過去の機械にも注目してください。
(平成28年5月6日掲載)

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第27回 深海の花畑

深い海の底のジオラマ
写真① 深い海の底のジオラマ

二枚貝の化石を含む岩塊
写真② 二枚貝の化石を含む岩塊

 博物館2階展示室の角にある小部屋が、深い海の底を思わせるジオラマ仕立てになっているのを知っていますか(写真①)。 そこに展示されているのは、深海に生息した特殊な生物たち、化学合成群集の化石です。
 化学合成群集とは、海底から湧き出す湧水に含まれるメタンや硫化水素をエネルギーに変える細菌や古細菌などを一次生産者とする生物群集です。 光合成に依存しないため、光の届かない深海でも生きていくことができ、生命の起源にも関わっているのではないかと考えられています。
 このような特殊な生物群集ですが、実は相模湾の海底で、現在も生息していることが分かっています。 化学合成群集を支えるメタンなどを含む湧水は、プレートの沈み込み境界付近の海底に多く見られます。
 化学合成群集を代表する生物にシロウリガイ類があります。 体内に共生する化学合成を行う細菌から直接エネルギーを得るため、消化器官が退化した特殊な二枚貝です。 真っ白な殻を持ち、細長い体を海底面に露出させ、密集して生息する様子を、発見者は「深海の花畑」と表しました。
 展示しているのは、主にシロウリガイなどの二枚貝の化石を含む岩塊で(写真②)、逗子市池子のおよそ330万年前の地層で発見されました。 このような化学合成群集の化石は神奈川県、特に三浦半島にある深海の地層から数多く発見されており、かつて海底にあった三浦半島でも、現在の相模湾のように多くの化学合成群集が形成されていたと分かります。 シロウリガイ化石群集は、特殊な環境で生きる「深海の花畑」の名残なのです。
(平成28年6月3日掲載)
*この記事は、2024年現在の既知の事項に基づいて一部修正しています。

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第28回 コメアゲザル

コメアゲザル

 写真のコメアゲザルは、研いだ米の水切りをする時に使われていました。 米粒が抜けたり詰まったりしないように細いヒゴでしっかりと編まれています。 高さ17cm・直径31cmの大きさの三升ザルです。 農家などでは現在も年末の餅つきの際に、オヤザルといって二斗(約36リットル)が入る大きなザルをもち米の水切りに使用しています。
 昭和30年代までは、家庭でもコメアゲザルのような竹製品がたくさん使用されていました。 当時は、現在の平塚市・伊勢原市・大磯町・二宮町の範囲に30軒以上の籠屋がありました。 それだけ竹製品の需要が高かったということが分かります。
 しかし、昭和40年ごろを境に状況は一変し、籠屋は転業を余儀なくされました。 当時、県内の真竹が一斉に枯れ、材料の入手が難しくなりました。 また、安価なプラスチックやビニールの製品が流通するようになりました。 竹のザルやカゴは、合成樹脂や金物、あるいは段ボールなどに置き換えられ、暮らしの中から姿を消していきました。
 そんな竹製品を実際に使ってみると、竹のザルは水切れが良く熱にも強く、手触りもやさしく彩りも美しいという良さが分かります。 竹製品を暮らしに取り入れると毎日が少し味わい深くなるのではないでしょうか。
 7月14日(木)まで、寄贈品コーナーで「河内の籠屋 吉川順郭(まさひろ)の仕事展」を開いています。 昭和25年ごろに河内で籠屋を開業して以来、ザルやクマデなどあらゆる竹製品を製作してきた吉川さん。 その製品、道具、言葉や製作工程の映像をとおして、竹細工職人の仕事を紹介しています。
(平成28年7月1日掲載)

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第29回 宿内軒別畳数坪数書上帳

宿内軒別畳数坪数書上帳
2階常設展示室に展示しています

「平塚宿」の模型
当時の様子を伝える模型

 この資料は1862(文久2)年11月に、江戸幕府14代将軍徳川家茂(いえもち)の江戸から京都への上洛(じょうらく)の準備・調査の一環として作成されました。 徳川家茂は1863(文久3)年3月、三代将軍家光以来229年ぶりに将軍として上洛しました。 上洛は公武合体推進と幕府権力の回復が目的でしたが、結局、意に反して攘夷(じょうい)決行を約束させられてしまいました。
 当初、この上洛は軍艦による海路の予定でした。 しかし、1862年8月、英国人が薩摩藩士に殺害される生麦事件が発生し、横浜沖に英国艦隊が集結したため、急きょ東海道を使った陸路での上洛に変更されました。
 資料には東海道に面した家々の家主・間口・奥行き・畳の数まで記され、問屋場や高札場といった施設の位置もわかります。 また、髪結い床や湯屋も記されており、警備のためのみでなく、上洛にお供する人々が利用する施設の把握も調査の目的であったことがうかがえます。
 この資料には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠(はたご)42軒、湯屋4軒、髪結床い2軒を含む計210軒が記載されています。 幕末期の平塚宿の様子を具体的に知ることができる重要な資料です。 1階常設展示室の「平塚宿」の模型はこの資料をもとに200分の1の縮尺で推定復元したものです。
(平成28年8月5日掲載)

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第30回 穴が開いた土器

古墳時代初頭の土師器
2階常設展示室に展示しています

穴が開いた土器
真田・北金目遺跡群でも穴の
開いた土器が出土しています

 2階常設展「まつりの世界」に展示しているつぼをご紹介しましょう。 左の写真の3点のつぼは、いずれも古墳時代初頭(約1700年前)の土師器(はじき)です。 右から権現堂遺跡(岡崎)、笹本遺跡(高根)、南原B遺跡(南原)と、出土遺跡はバラバラですが、ある共通の特徴を持っています。 それは、底に大きな穴が開いているということです。
 こんなところに穴が開いていると、使い物にはなりません。 特に、つぼは液体を入れるための器ですから、ちょっとしたヒビが入っても使えなくなってしまうはずです。
 このような土器は、弥生時代から古墳時代の墓に供えられていました。 なかには、土器を焼く前にきれいに穴をあけているものもあり、初めからお供え用にこうした土器を作ることもあったようです。 このような「使えない土器」を墓に供える理由は、この世のものとあの世のものを明確に区別するためと考えられます。 あの世のけがれをこの世に持ち込まないために、葬送の儀礼で使用する土器を普段使えないようにしたのでしょうか。
 あるいは、当時の人々の死生観を表しているとの見方もあります。 生と死、この世とあの世は正反対の世界ととらえ、この世で生きているものが死ぬとあの世に行き、あの世で生き続けると考える。 あの世へと旅立った故人がそこで使うことができるように、この世で死んだ状態にした土器をささげた、とも考えられるのです。
(平成28年9月2日掲載)

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第31回 宙(そら)を巡る流れ星

ふたご座流星群の流星
平成26年12月15日午前4時17分に撮影した
ふたご座流星群の流星


>博物館の流星カメラ
流星を逃さないようにあらゆる方向を向く
博物館のカメラ

 皆さんは流れ星を見たことがありますか?  左の写真は博物館の屋上に設置している、高感度ビデオカメラを使って撮影した流れ星です。 宇宙のどこからともなく現れて、視野の中にふっと一筋の細い光を残す現象を、流星と呼びます。 光は瞬く間に消え去ってしまい、その後は、まるで今の出来事が幻であったかのように、空はすぐに静けさを取り戻します。
 流星の正体は、彗星(すいせい)から放出された小さなちりです。 ちりが超高速で地球の大気に突入するときに、光っているのです。 早いものだと秒速70Kmもの猛スピードで落下します。 前にある地球の空気を押しながら落下するので、押された空気はぎゅっと圧縮されて数千度という高温になります。 あまりの熱さで流星のちりは分解され、プラズマと呼ばれる状態になります。 プラズマの光が私たちの目に届き、流星として認識されます。 特に明るい流星は、光ると同時に音がなることがあり、博物館の屋上ではマイクを使って流星の音も録音しています。
 博物館のサークルの一つ、天体観察会の流星分科会でも、流星観測用のビデオカメラを製作し、会員同士で同じ流星を観測しています。 異なる地点から同時に一つの流星を撮影することで、流星の位置と速度がわかり、小さなちりの通ってきた道のりが求められます。 その道のりには、太陽系がどのような歴史を歩んできたのか、たくさんの記憶が刻まれています。
 流星は、過去・現在・未来へ続く長いつながりを見渡すための、重要な案内役なのです。
(平成28年10月7日掲載)

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第32回 ペンシルロケット

ペンシルロケット

 写真は、東京大学の糸川英夫教授が昭和30年に初めて製作した、ペンシルロケットの断面模型です。 ジュラルミン製で全長わずか23cm、重さ200グラムの小さなロケットです。 飛ぶために必要な推進薬も重さ8.4グラムと、とても小さいものでした。 この推進薬の開発には、大正8年から昭和20年まで平塚にあった、海軍火薬廠(かやくしょう)で培われた技術が利用されています。
 小さいながらも、ロケットの基本要素が備わったペンシルロケットは、生産や燃焼実験、飛行実験など、ロケット工学のあらゆる分野の問題点を学ぶ材料となりました。 何度も実験を繰り返し、現在まで受け継がれる、技術のイロハが導き出されました。戦後の日本のロケット開発は、このペンシルロケットから始まったのです。
 ロケットはお尻からガスを噴射し、その反動で飛びます。 燃料と一緒に酸素も含んだ火薬を積んでいるため、酸素のない宇宙でも、燃料を燃やすことができるのです。 ペンシルロケットに使われている火薬は、点火されると外側と内側が同時に燃えて、わずか0.1秒という短い時間に大量のガスを発生させることができます。
 写真の右側を見てください。 ラッパのようなくびれがついています。 これはラバール・ノズルと呼ばれる、ロケットに欠かせない部品です。 ロケットをより速く、より遠くに飛ばすためには、ガスを勢いよく押し出さなければなりません。 そのため、ガスの通り道は一度狭くなっています。 ホースの出口をつぶすと水が遠くまで飛ぶのと同じ原理です。 狭められたあとはスカートのように広がった部分を通り、ガスは勢いを増して外へ押し出されます。
 このペンシルロケットの模型をはじめ、戦前から現代のロケット技術を紹介した特別展を博物館で開催しています。  ぜひお越しください。
(平成28年11月4日掲載)

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第33回 県の石

丹沢層群の化石と岩石と鉱物
左から丹沢層群のサンゴ化石・トーナル岩・湯河原沸石
湯河原沸石は赤丸の中の、薄い板状の結晶です

 県の花、県の鳥などと同じように、県の石があるのを知っていますか。 今年5月、日本地質学会は県の石として、各県で産出・発見された化石・岩石・鉱物を発表しました。 地元ならではの化石や石を通して、大地の成り立ちに目を向けてもらいたいという願いが込められています。 神奈川県の化石・岩石・鉱物として次の三つが選ばれました。
丹沢層群のサンゴ化石群 晴れた日に、平塚の海岸から相模湾を眺めると、南に伊豆大島が見え、さらに南には新島や三宅島などがあります。 かつて丹沢山地も、これらの島と同じように海の向こうにありました。
 丹沢山地にある約1500万年前の地層の一部から、熱帯性のサンゴなどの化石が見つかっています。 これらは、丹沢が南の熱帯環境にあった時代の証拠と考えられています。
トーナル岩 丹沢は、およそ700~500万年前に、プレートの動きに乗って本州に衝突しました。 その衝突で形成されたのが西丹沢周辺で見られるトーナル岩です。 地下深くでゆっくり冷えて固まってできる岩石です。 現在、地表で見られる理由は、丹沢が本州に衝突したことで、地下深部のマグマが浅いところへ到達するという特殊なマグマ活動があったためと考えられます。
湯河原沸石 約40万年前に箱根火山が誕生しました。 同火山の一部を作る凝灰岩などの隙間に熱水が入り込み、そこでできた結晶が湯河原沸石です。 学名はユガワライト。 県内の地名が付く唯一の鉱物です。
 これら県の石を通して、われわれが暮らす神奈川県の大地の成り立ちに思いをはせてみてください。
(平成28年12月2日掲載)
*この記事は、2024年現在の既知の事項に基づいて一部修正しています。

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第34回 長寿の星 カノープス

カノープスとシリウス
平塚海岸で平成22年2月6日
午後8時ごろに撮影したカノープス

 冬は星空がきらびやかな季節。最も明るい星の仲間である1等星が7つも頭上に輝き、冬の大三角や冬のダイヤモンドを形づくっています。
 ですが、冬の夜空に輝く1等星は7つだけではありません。 8つ目の1等星、りゅうこつ座のカノープスがあるのです。 夜空に輝く星の中ではおおいぬ座のシリウスに次いで2番目に明るく見える星ですが、あまりなじみがありません。 それは、カノープスが南の超低空にしか昇らないため、実際には3等星ほどの明るさでしか見えないからです。
 南の空がよほど開けた場所でないと見ることができない上、低空までよく晴れていないと見えません。 日本では福島県あたりが北限と言われ、なかなか見ることができない星なのです。 そのため、中国ではカノープスは神格化され、南極老人星と呼ばれています。 南極老人は『西遊記』や『封神演義』などの小説や戯曲にも登場し、七福神の中で長寿の神とされる寿老人のモデルとも言われます。 このことからカノープスを見ると寿命が延びるという伝承が生まれました。 見ることが難しい分、見られれば良いことがある、おめでたい星なのです。
 実は平塚では比較的簡単にカノープスが見られます。 海岸に行けば水平線を遮るものがなく、低空まで見渡せるからです。 カノープスの見頃は1月・2月の午後8時~9時ごろ。 新しい年の始まりに、縁起が良い星を探してみませんか。 観察のポイントは、ぜひ博物館のプラネタリウムでお聞きください。
(平成29年1月6日掲載)

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第35回 縄文のタイ

縄文時代のジオラマ
ジオラマを通じて縄文時代の
暮らしをのぞいてみませんか


>炉の上につるされたクロダイ
住居の炉の上につるされたクロダイ

 はるか縄文の昔から、人々が魚を保存食として加工していたことを知っていますか。 縄文時代にも私たちになじみのある、クロダイが食べられていました。
 博物館一階にあるジオラマ「五領ケ台のくらし」では、市内唯一の国指定史跡である五領ケ台貝塚をモデルに、約4千年前の人々の生活を紹介しています。 貝塚からは貝殻だけでなく、魚の骨も数多く発見されました。 中でも、クロダイの骨が多く見られます。
 とある夕暮れ時、石器を作っている長老のもとに、山に狩りに行っていた若者たちと犬、近くの海岸や森で貝やドングリを拾っていた子どもたちが帰ってきました。 家の中では母親が炉の火を使って夕食を作り始めています。 家の中に目を向けましょう。 棚を作って肉や魚を置いたり、天井からつるしたりしています。 これは、炉から立ち上る熱と煙を利用して食品を加工する工夫です。 保存食として「くん製」になっているのはシカやイノシシなどの動物の肉とクロダイです。
 クロダイは体長70cmにもなる大型魚です。 現在でも、本州から九州まで広く生息していて、海岸近くの浅い場所や内湾でも見られます。 雑食性なので、いろいろなエサで釣ることができます。 大きな口はシカの角で作った大きな釣り針も一口でくわえてしまうでしょう。 縄文時代の人々にとって身近な、そして重要な食料だったはずです。
 今も平塚の海で釣れるクロダイとは、遠い祖先の時代から長い付き合いがあるのです。
(平成29年2月3日掲載)

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第36回 最終回 御殿飾りのお雛(ひな)さま

御殿飾りのお雛さま
御殿飾りのお雛さま

 3月3日の桃の節句を祝い飾られるひな人形は、時代とともに、姿や種類が移り変わってきました。 明治の内裏びなは大きく、大正・昭和初期は御殿飾りの流行で人形は小型化し、昭和30年代からは大きな七段飾りが人気を集めました。 写真は、大正3年に初節句を迎えた方の御殿飾りのひな人形で、博物館で所蔵している、8点の御殿飾りの中で、最も古いものです。
 御殿飾りは、江戸時代に京都で生まれ、江戸へと伝えられました。 ひな人形の御殿は、天皇の御所、現在の皇居にあたる内裏の紫宸殿(ししんでん)を模しています。 紫宸殿は、即位礼や大嘗祭(だじょうさい)などの儀式を行う正殿です。
 写真のように屋根がない御殿を源氏枠といいます。 『源氏物語絵巻』の絵のように、上から屋内を見下ろすような構造から名付けられました。 昭和初期には屋根付きの御殿へと変化していきます。
 写真のひな人形、男びなと女びなの左右の並びが現在の一般的な並びとは反対になっていることに気付きましたか。 天皇は陰陽五行説にもとづく「天子南面」という言葉にならい、紫宸殿で南向きを正面としていました。 その際、日が昇る東向き、すなわち左側が男性の位置とされ、ひな人形の配置も同様になっていました。 しかし、昭和3年、即位の礼で、昭和天皇が西洋式に皇后の右側へ立たれました。 それにならい、東京のひな人形業界が左右の並びを変えて売り出し、現在まで続いています。
 現在、開催中の特別展「女の子と男の子のお雛さま 桃と端午の節句人形」では、江戸から昭和のひな人形と五月人形を三十組以上展示しています。
(平成29年3月3日掲載)

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