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最終更新 2004年3月

小笠原から来た漂着軽石
 


見知らぬ漂着軽石の発見
「名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実一つ」
 島崎藤村の「椰子の実」は、後の民俗学者柳田国男が明治30年に伊良湖岬に椰子の実が流れ着いたのを語ったことが発想の一因とされます。ここでは、椰子の実ならぬ、南国、小笠原から流れ着いた軽石を素材に、遠き島の火山活動や軽石の漂着の仕方について思いを馳せてみよう。
 1991年9月、博物館の行事である「相模川の生い立ちを探る会」で、平塚海岸の砂浜地形を観察していたときのことでした。多量の見慣れない軽石が、波打ち際より40mほど離れた、暴風時にしか波のかぶらない浜(後浜という)に列をなして漂着しているのを見いだしました。この日は台風18号の直後で、台風の前にも、その日の波打ち際の漂着物の中にも、この種の軽石が見られないことから、台風18号が通過した9月19日に打ち上げられたものであろうと思われました。この軽石は、相模湾岸でふだん良くみる、黄白色や白色のよく発泡した箱根火山の軽石とは異なり、灰白色の軽石で、2〜4ミリの白色の斜長石や黒色の単斜輝石という結晶を含み、かつ黒色の玄武岩片(溶岩片)を必ず取り込んでいるという特徴を持っていました。
■漂着軽石の謎
 その後、相模湾岸の伊東〜三浦半島にかけての海岸を調べてみると、この種の軽石が真鶴から大磯町西小磯の海岸を除く相模湾各地で、打ち上げられていることがわかりました。
 そして、こうした特徴をもつ漂着軽石の起源を調べてみると、小笠原の南硫黄島の北にある福徳岡の場という海底火山から1986年1月に噴出された軽石と良く似ていることがわかりました。早速、琉球大学に資料を送付して照会したところ、まちがいなく、福徳岡の場起源の軽石であることが明らかになりました。
 福徳岡の場は南硫黄島の北4キロにある海底火山で、過去3回噴火した記録があります。1986年1月18日〜21日まで噴火し、一時的に新島が作られましたが、波による侵食で2ヶ月程で海面下に没してしまいました。この時海面は著しく変色し、多量の軽石が漂流したことが知られています。琉球大学の加藤祐三氏の研究では、この軽石は噴火後西方に漂流し、噴火4ヶ月後に琉球列島に漂着し、その後黒潮に乗って紀伊半島の潮岬まで達していたことがわかっていました。相模湾でのこの発見は台風によりさらに遠方まで運ばれたことを示しています。
 また、1989年7月に伊豆半島東方沖の海底火山(手石海丘)から噴出された軽石やスコリアが見られたり、最近では、新島産と思われる流紋岩質の軽石や、九州の火山かと思われる給源不明の軽石が多量に打ち上げられることもあります。このように漂着軽石からも、海流の動きを知ったり、堆積物の移動や堆積の過程を考える手がかりが得られます。
 
  
文献:森慎一・山下浩之・五島政一(1992) 平塚市博物館研究報告 15号

平塚海岸での軽石の漂着 小笠原からの軽石1
▲後浜に打ち上げられた、見知らぬ軽石の漂着(平塚海岸) ▲小笠原から平塚海岸に流れ着いた軽石
小笠原からの軽石2 小笠原起源の軽石の顕微鏡写真
▲小笠原から平塚海岸に流れ着いた軽石 ▲小笠原起源の軽石の顕微鏡写真(青・赤の結晶は普通輝石)

福徳岡の場起源の軽石の分布図
小笠原・福徳岡の場から噴出され黒潮に乗って相模湾に漂着した (森慎一他1992)

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