小田原の海は相模湾最大の定置網漁場
小田原水産卸売市場(通称・魚市場)にて、魚市場社長の米山典行氏と小田原市経済部水産海浜課の内藤千春係長にご教示いただく。主な内容は次のとおり。
小田原は紀州との関係が深く、網の技術も和歌山県から伝えられたものがある。
全国で年間通して定置網を操業しているのは、高知県、富山県、神奈川県のみで、水深が深い海だから可能である。
小田原の海には、酒匂川、相模川の他、富士山の伏流水が流れ込むため、良質の植物性プランクトンが育ち、魚の生態系に好影響を与えている。
定置網は小田原の漁獲の8割以上を占める。魚が入っても出ていくことが可能な、自然に優しい漁法である。対して、巻網は魚を一網打尽にする上、傷つけてしまうので値が安くなる。
相模湾の各地でヒラメやタイの稚魚を放流しているが、放流した魚は小田原の海に集まる。魚は深いところへ集まるからである(夏場はアサバに集まる)。
ブリがとれなくなった原因。
(1)東シナ海で、モジャコ(ブリの稚魚)を養殖用に乱獲したため資源が減少した。
(2)ダムや取水堰ができたことにより、川からの水が非常に少なくなり、砂浜がやせ細った。
(3)西湘バイパスの建設で、魚付林がなくなった。さらに、振動と音に加え、夜でも明るいので魚が寄らなくなった。
魚の旬がずれてきており、サバといえば神奈川県ではマサバだったが、最近は関西でとれるゴマサバが増えてきた。
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急潮に強いハイテク定置網の導入
神奈川県水産技術センター相模湾試験場では、明治時代から最新型に至るまでの定置網模型が展示されており、網の構造と変遷が学べる。ご説明いただいた主な内容は次のとおり。
定置網の中に入った魚の8割は逃げているらしい。一網打尽にしない漁法である。
平成9年に、急潮に強いハイテク定置網が小田原市米神に導入された。米神の定置網は水深75㍍に張られている。
相模湾には大型定置網が26ヵ統張られている。
相模湾に生息する魚1600種のうち、定置網では300種が有用種としてとられている。
定置網漁師の仕事は、魚をとる漁撈作業が3割、網のメンテナンスが7割である。朝7時からお昼頃まで網を補修する。
定置網は、会社組織か漁協が経営するところが多く、給料制で安定収入が得られるため、若い漁業者が増えている。
定置網を取り替えるときは、側張のワイヤーロープを切って取り外す。夏期には約2週間に1度、箱網を取り替える。
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▲回流水槽実験装置見学
急潮による定置網の流出を防ぐため、ワイヤーロープを太くし、ダイアバを(ウキ)をロケット型にして流水抵抗を減らすなど、実験の成果が漁具の改善に生かされている。神奈川県水産技術センター相模湾試験場にて
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▲小田原漁港にて
小田原漁港は県内唯一の第三種漁港であるため、県外の漁船を受け入れることができる。魚市場は県西部最大の規模であり、西湘・湘南地区で水揚げされた魚が陸送され競りにかけられる。市場の取扱品のうち陸送品が84%を占め、地元の水揚げは2割以下である。 |
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▲防潮堤 明治36年から大正2年にかけ三回にわたり、長さ99間(180㍍)、総高24尺5寸(7.42㍍)に及ぶ石垣を築いたことが刻まれている。 |
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なりわい交流館にて、ご実家が定置網の網元で、かつての漁業や祭礼行事などにとってもお詳しい、山田呉服店の社長さんにお話しをうかがった。心に残る言葉がたくさんありました。
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▲小田原の浜 |
▲図解入りで説明される山田さん |
砂浜が減った
山田さんが子どもの頃は砂浜が今の3倍も広かったという。酒匂川の上流に三保ダム(丹沢湖)ができ、横浜東京へ水道水を供給するために飯泉に取水堰ができ、海岸が狭くなった。今のように石がゴロゴロしておらず、本当の砂浜だった。
シラスをとってはいけない
ダムと取水堰ができて酒匂川から海岸への流量が減った。植物性プランクトンをシラスが食い、それがイワシになり、アジ、サバ、ブリが食うという魚の生態系の循環を人間が壊してしまった。シラス漁が盛んだが、山田さんの大叔父はシラスをとることに大反対だった。「中・大型の魚がシラスを餌にして回遊するんだからとってはいけない」とよく言っていたという。山田さんは「人間の生活が近代化することが良いかどうか。人間は自然環境を維持しつつ生活しないといけない」と語る。
ドンブカの海
小田原の海は遠浅ではなく、子どもの頃に波打ち際から5~6歩沖へ歩くと背が立たなかった。ドンブカの海である。しがたって波のうねりが大きく、波に力がある。船の操作を誤るとひっくり返されてしまう。
男なんてものは年とりゃ元の港に帰ってくる
ブリがいちばんとれた昭和30年頃、漁船に乗せてもらった。網が閉まってくると、ブリ同士がぶつかり、エラから血が出て海が真っ赤になるくらいだった。たいへん勇壮なもので、見ていて鳥肌の立つ思いがした。1シーズンに57万匹もとれた。宮小路で毎晩飲めや唄えやだった。
台風のとき、手こぎの船はオカへ上げ、機械船(ポンポン蒸気)は三崎の方へ上げた。船持ちの漁師は、小田原のおかみさんとは別に三崎へ別の女を持っていた。おかみさんはおおらかで、「男なんてものは年とりゃ元の港に帰ってくる」と言った。
漁師のおかみさんの仕事は、漁船を浜へ引き揚げること、魚を市場へ担ぎ上げること、魚の干物をつくること、などであった。
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▲大漁着・マイワイをはおる山田さん |
▲探訪会員もマイワイを試着させていただく |
木遣り唄は富山の漁師の置き土産
松原神社のご神体は仏像で、山王の漁師が網に引っかけたものを祀ったのだという。祭礼の神輿は、むかしは漁師しか担ぐことができなかった。
江戸時代の終わり頃に、富山県の漁師数人が小田原へ来て何十日か滞在し、網の張り方を教えていった。その置き土産として残していってくれたのが、現在、松原神社の祭礼で唄われる木遣り歌である。富山では春に船へ帆柱を立てるときに木遣り歌を唄ったらしく、大漁と安全を祈願する意味がある。このように、松原神社と漁師との関係はたいへん深いものだった。
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絶品の蒲鉾
明治11年創業の老舗、山上蒲鉾店の社長、上村純正さんに小田原蒲鉾の歴史、製法などを教えていただいた。
小田原の蒲鉾づくりは江戸時代の天明年間から盛んになり、参勤交代で全国へ広まっていった。天明元年、創業230年の鱗吉が元祖である。13社が組合に加入している。
蒲鉾づくりは水が重要である。小田原は早川と酒匂川の水が合流するので地下から良質な水が出る。水さらしの行程で大量の水を使用するため、水質の善し悪しが蒲鉾の品質を左右する。
原料は、大正時代までは相模湾でとれたキスやクロムツ、イサキなどを使用していた。現在は、東シナ海でとれたシログチ(イシモチ)と、ベーリング海でとれたスケソウダラを使用している。
お店で試食させていただいた蒲鉾は、弾力・風味ともに絶品であったことはいうまでもない。
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▲山上蒲鉾店の店先 |
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お知らせ
2月1日(日)~15日(日)開催の博物館文化祭で、2014年度の民俗探訪会の活動を「歩く・見る・聞く-相模湾の漁業-」のテーマで展示します。ぜひご覧ください。 |