これまで土器や竪穴住居(たてあなじゅうきょ)など、遺跡(いせき)から見つかった“モノ”を使って説明してきました。
ですが、古墳時代になると渡来人から「文字」が伝わると、人々は文字を使って様々な記録を残していくようになります。
そして古墳時代が終わってから100年ほどたった奈良時代(ならじだい)に、それまでの日本の歴史をまとめた2冊の本がつくられました。
ひとつは「古事記(こじき)」もうひとつは「日本書紀(にほんしょき)」。この2冊の本のことをまとめて「記紀(きき)」と言ったりもします。
「古事記」は西暦712年に完成しました。昔のことを知ってるひとから聞き取りを行ってつくられた本となっています。
「日本書紀」は西暦720年につくられました。こちらは、国によってつくられた公式の歴史書と位置づけられていた本といわれています。
つまりこの本には、今私たちが「弥生時代」・「古墳時代」とよんでいる時期のことも記録として残されている。ということですね。
この二つの本が扱っている内容は、細かいちがいはありますが、おおまかな話のながれは変わりません。
どちらも「神話(しんわ)」の世界からお話がはじまり、それまでの天皇、あるいはその一族の話が書かれています。
ですが、これらの本に書かれている話を全て本当のこととして受け入れることはなかなかむずかしいです。
神話の世界の話はともかくとして、歴代天皇の話がはじまっても気をぬくことはできません。
例えば、記紀に記録されている歴代天皇はの中には100才を超える人物が何人も登場しますし、
各天皇の年齢(ねんれい)などをさかのぼって計算すると、初代天皇の「神武天皇」は縄文時代の終わりぐらいから存在することになったりします。
そして、この神武天皇は神様の子供のひとりだったりしています。すごいですね。
と、このような感じです。なかなかこのようなことが事実とするには難しいように感じます。
一方で、「記紀」の記録と合うように、遺跡(いせき)でみつかったものもあります。その一例がみなさんの教科書にものっています。
埼玉県(さいたまけん)と熊本県(くまもとけん)の古墳でみつかった鉄剣・鉄刀に「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」と記されたものです。
この“ワカタケル”とは、古事記には「大長谷若建命(おおはつせの“わかたける”のみこと)」、日本書紀では「大泊瀬幼武天皇(おおはつせの“わかたけ”のすめらみこと)」とも書かれている雄略(ゆうりゃく)天皇ではないかとされています。
伝説的な記述が多い記紀ですが、当時の様子を探るうえでは貴重(きちょう)なものですね。
いつもは平塚市内の遺跡を紹介するのですが、今回はそうもいきません。記紀には残念ながら「平塚」は登場しないのです。
ですが、神奈川県(かながわけん)のいくつかの場所は記紀の記録に残っています。
「ヤマトタケル」という人物の話を紹介(しょうかい)しているところが特に有名でしょうか。多くの教科書にも取り上げられているでしょう。
古事記では「倭建命(やまとたけるのみこと)」、日本書紀では「日本武尊(やまとたけるのみこと)」と表記されることが多いです。
「ヤマトタケル」は、当時は異民族と考えられていた九州や関東をふくむ東日本を平定した人物として記紀に記されています。
ヤマトタケルが実際にいた人物かどうかはなかなかうたがわしいところですが、当時の地理的な情報や地名(ちめい)との関係などを知る上ではとても良い資料(しりょう)です。
もう一例あげるとしましょう。先ほど書いた「走水」を通るとき、ヤマトタケルの妻(つま)が犠牲(ぎせい)になってしまします。
東北から戻り、次の目的地へ向かっている最中(さいちゅう)、この妻のことを思うシーンがあります。
【1】の日本書紀では碓日坂(今の群馬県と長野県の境である碓氷峠(うすいとうげ)と言われています)がそのシーンの場所とされていますが、
【2】の古事記では足柄(今の神奈川県と静岡県の境である足柄峠(あしがらとうげ)と言われています)だと書いています。
どちらが真実であるかはわかりませんが、この二つの歴史書のちがいを読みくらべてみるのもおもしろいですよ。