どうして「こふん」時代なの?

【古墳について】



          

辞書を引いてみると、「古」とはむかし、「墳」とは土をもりあげた墓、という意味が出てきます。古墳(こふん)とは、昔のえらい人のお墓です。
実際の調査でも、きれいな模様(もよう)の鏡(かがみ)や当時は金ピカだったであろう刀のかざりなどがみつかることがあります。
弥生時代に“ムラ”をまとめるリーダーのような人物が、周辺のムラをも従え“クニ”へと成長し、「王」と呼ばれるようになったことは前回説明しました。
彼らも、弥生時代に一般の人とはちがう、それぞれ特徴的(とくちょうてき)な大きなお墓をつくっていたのですが、
今から約1800年前に突然、ある大きな墓が奈良県に出現することとなります。その墓は「箸墓古墳(はしはかこふん)」と呼ばれています。
箸墓古墳は、あの「卑弥呼」の墓ではないかともいわれている古墳です(卑弥呼の墓については諸説あり、確実にはわかっていません)。
長さ約280m、高さ約30mのとても大きなお墓である箸墓古墳は、当時のどの「王」や「豪族(ごうぞく)」の墓よりも大きかったと考えられています。
また、お墓の形も、丸の形に三味線(しゃみせん)などの演奏で使う“バチ”のような四角形を組み合わせた独特(どくとく)な形をしています。
こうした形のお墓は「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」といいます。「方」が四角形(“バチ”のかたちのところ)、「円」が丸いところという意味ですね。

この前方後円墳は箸墓古墳がつくられてから、またたくまにほかの地域へ広がっていきます。
それまで、ほかの形のお墓をつくっていた地域でも前方後円墳がつくられるようになっていくのです。
箸墓古墳を含む長さが100mをこえる、大きな「前方後円墳」は近畿地方に多く集まっています。みなさんの教科書にもそうした図がのっていますよね。
こうした巨大な古墳をつくるには多くの人手が必要です。この古墳づくりのようすも教科書にのっていることと思います。 多くの一般の人々を古墳づくりのために集め、作業をさせるということは、それなりの権力を持った人ではないと難しいことです。
こうしたことなどから、大きな古墳が多くある近畿地方の豪族や王は、強い権力のある連合のような組織であったのではないかと考えられています。
こうした連合のことを大和朝廷(やまとちょうてい)や大和政権(やまとせいけん)と言ったりします。
その中心となった人物は大王(おおきみ)とよばれ、のちに天皇と呼ばれるようになっていったのではないかとみられています。
強い権力をもった大和朝廷のつくったお墓の形である「前方後円墳」が全国各地でつくられたということは、大和朝廷との同盟関係や支配関係を示していると考えられています。
このように箸墓古墳がつくられたとみられる3世紀中ごろからのおよそ300~400年間は古墳時代と呼ばれます。
縄文時代や弥生時代は土器の名前が時代の名前となっていましたが、お墓が時代の名前なんですね。
では平塚市内の古墳についてみていきましょう。




   

平塚の古墳

~塚越(つかごし)古墳と真土大塚山(しんどおおつかやま)古墳~

  

     

さて、古墳は平塚市内でもいくつかあります。その中でも有名なのが塚越古墳(つかごしこふん)と真土大塚山古墳(しんどおおつかやまこふん)でしょう。

写真1
【1】塚越古墳のあるところ


塚越古墳は平塚市北金目にある古墳です。長さは約58m、高さは最大3mであろうと推定されています。
かつては古墳時代の終わりごろの前方後円墳であると考えられていましたが、2007年の再調査で、古墳時代のはじまりごろの前方後方墳であることがわかりました
写真2
【2】塚越古墳復元想像図

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)とは、前方後円墳の丸い部分が四角形となっている古墳のことです。
古墳時代のはじまりごろの東日本で多くみられる古墳の形ですが、時代がたつにつれてだんだんつくられなくなっていきます。
【2】は調査中の塚越古墳とその復元図です。左側の写真だと「後円」のようにもみえますが、これは後の時代の人が土をけずってしまったので丸く見えるものと思われます。
調査では、古墳の周りを囲む溝(みぞ)がみつかり(【2】では青色の部分)、これが「後方」の形につくられていたという報告があります。
この古墳は遺体(いたい)がおさめられた所も調査されています。【2】の後方部の黄色くなっているところです。
棺は木でできており、朱色で塗られていたとおもわれる痕跡(こんせき)がみつかっています。
その中からは葬られた(ほうむられた)人がつけていたであろう管玉(くだたま、アクセサリーなどの装飾(そうしょく)につかわれていたもの)や、鉄製の工具などが発見されています。
写真3
【3】現在の塚越古墳

塚越古墳は台地の上に位置していて、周囲の低地には今も畑や田んぼが広がっています。当時も同じような景色(けしき)だったのかもしれません。
塚越古墳に葬られた人は、豊かそうなこの地域をまとめたリーダーだったのでしょう。
大和朝廷との強い関りが考えられる前方後円墳ではなく、地域の独自性という面が強い前方後方墳であったということや
棺の中から見つかったものも、特別に“豪華(ごうか)”というわけではないことからも想像できますね。


   

さて、もうひとつの真土大塚山古墳についてお話ししましょう。

写真4
【4】真土大塚山古墳のあるところ


真土大塚山古墳は平塚市西真土にあった古墳です。“あった”というのは、現在この古墳はこわされて、なくなってしまっているからです。
そのため、古墳があった正確(せいかく)な場所はもうわかりません。真土小学校の南側にひろがる住宅街のどこかにあったのではないかと言われています。
また、1935年から何回か調査が行われていますが、その古墳の形はくわしくわかっていません。前方後円墳説や前方後方墳説などにわかれています。
一度こわれてしまったもの、なくなってしまったものは同じ形には二度ともどりません。本当に残念なことです。
写真5
【5】むかしの真土大塚山古墳

【5】は、今から60年ほど前にとられたと思われる真土大塚山古墳の写真です。
写真左側に“高まり”があると思います。ここに古墳があったそうです。今は住宅街となり、地面が平らになってしまっているところが大半ですが、
当時は平塚市内にはこうした砂の高まりである砂丘(さきゅう)がところどころにあったと考えられています。(くわしくはこちら)
塚越古墳は台地の上にあり、でも周りより“高い位置”にありますが、真土大塚山古墳も同じように“高い位置”につくられていたのです。


さて、この真土大塚山古墳が調査されたとき、一枚の鏡が発見されました。その鏡は「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」といわれるものです。
この鏡は全国各地でみつかっているものですが、最も多く見つかっているのは大和朝廷のあった近畿地方です。
また、真土大塚山古墳でみつかったこの鏡と同じ“型(かた)”でつくられたとされるものが京都府、兵庫県、岡山県の古墳でみつかっています。
こうしたことなどから、大和朝廷との強い関りのある鏡であると考えられています。
すぐ隣に、船を使った交通で重要と考えらている相模川があることから、
当時の大和朝廷も相模川は大切と考え、ここを管理するためにこの辺りのリーダーと関りを持ったのではないかとも言われています。
三角縁神獣鏡は、博物館2階にレプリカが展示されています(本物は東京国立博物館にあります)。