ムラからクニへ?

【弥生時代の集落について】



          

「ムラからクニへ」。どの教科書でも弥生時代の重要なワードとして取り上げられています。
「米づくりが広がると、米をつくための土地や水をめぐって争いが起きました。ムラの指導者(しどうしゃ)はムラを支配する豪族(ごうぞく)となり、
周りのムラをも支配する「王」と呼ばれる人もあらわれました。こうした周辺のムラをまとめるクニとなっていきました。」
おおまかにはこのように説明されているのでしょうが、ちょっと難しいですね。少し簡単に解説していきましょう。
まず米づくりは、「それまでの食べ物を採集してくることよりかは安定した食生活を送れるようになった」ということを前提(ぜんてい)としています。
必ずとれるとは限らない動物や木の実よりかは、栽培しきってしまえばある程度の収穫(しゅうかく)がみこめる米づくりのほうが安定しているということですね。
しかし、米はどこでも作れるというわけではありません。水田には水を入れておかないといけませんので、水はけがよすぎる土地ではむずかしいです。
そもそも川などがないと、田んぼに水を引き込む水路も作れません。また、それなりに広く平らな土地ではないと田んぼを作ることもままなりません。
今のように農作業のための機械は当然ないですし、道具も今のものよりかは効率が悪い時代。「米をつくれる土地」は大切だったのでしょう。
こうしたことから、ムラ同士の対立や争いは起きていったのだろうと考えられています。
さて、こうしたムラには中心的な人物である「指導者」がいたと考えられています。いったい何を「指導」していたかはわかりません。
ですが、みなさんこう考えてみてください。みなさんは、「(a+b)³を展開してください」と言われてもわかりませんよね。
これは数学の問題でしたが、「わからないこと」はそれを知る人に教えてもらうのが一番早いでしょう。ちなみに私はもうわかりません。
当時の米づくりもそうだったのしょう。いざつくるとなっても、つくり方を知る人間に教えてもらわなければ何もできないはずです。
しかも米は今後の自分たちの生活にかかわるものです。また、水の利用についてほかのムラと話し合ったり、スムーズにつくるための役割分担を決めたりと、
ムラの生活をよりよくするための「指導」できる人が中心人物・リーダー的な立ち位置になっていくのは想像しやすいですよね。
こうした人物たちが周辺のいくつかのムラをも従える豪族となり、その内、いくつかの豪族を従える王という存在が見いだされ、クニへとなっていきます。
その王の中で有名なのが弥生時代の終わりごろにいたとされる「卑弥呼」ということになります。




   

弥生時代の集落

~環濠集落(かんごうしゅうらく)と高地性集落(こうちせいしゅうらく)~

  

     

さて、みなさんの教科書には弥生時代の集落のイラストや模型(もけい)がのっているものが多いと思います。
たて穴住居や掘立柱の倉庫…ここら辺は縄文時代のイラストなどとは変わりませんね。もちろん、こうした縄文時代と変わらない様子の弥生時代の集落も多くあります。
ですが、教科書にのっているももの周りを見ると木の柵や堀(ほり)などで囲われて(かこわれて)いることに気づくでしょうか。
出入口以外から入るのがとても難しそうなこのような集落は「環濠集落(かんごうしゅうらく)」と呼ばれます。
「環」とは「輪っか」や「めぐる」という意味で、「濠」とは「ほり」という意味を持ちます。
堀(ほり)がまわりにめぐっているこの集落は、ほかのムラからおそわれたときに守りやすいようになっている集落なのです。

     

教科書では佐賀県(さがけん)の吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)がのっていることと思います。
復元されたものをみると、とても立派な堀とたくさんの柵でまさに来るものを寄せ付けないといった感じです。
平塚市内ではここまでしっかりとした環濠集落は見つかっていませんが、その可能性があるのではないかという遺跡(いせき)はあります。

写真1
【1】厚木道遺跡(あつぎみちいせき)のあるところ

写真2
【2】調査で見つかった建物や溝(みぞ)の跡

平塚市中原を通る大きな道路(平塚海岸・伊勢原線)を建設するため、40年ほど前に発掘調査が行われました。
【1】の上宿遺跡(かみじゅくいせき)、厚木道遺跡、山王脇遺跡(さんのうわきいせき)にかかる大きな道路ですね。
このうちの、厚木道遺跡内にある調査区で、弥生時代終わりごろのたて穴住居とその時代につくられたと思われる溝(みぞ)が見つかりました。
【2】はその調査区を撮った写真です。現在の日枝神社の東側付近にあたります。
ですが、この遺跡のたて穴住居の多くは弥生時代よりあとにつくられたものが大半なのでちょっとわかりにくいですね。

写真3
【3】見つかった建物を上から見た図

【3】は【2】を上から見た時の模式図です。【2】の写真は北から南側へ撮ったものなので、建物の位置が上下で反対になっています。(【2】の写真は【3】の中の矢印のほうから撮ったものです。)
赤色が弥生時代のもの、青色がそれより後の時代のもの。白色が時期がよくわからないものです。
こうしてみると、教科書にのっているイラストのような、建物と溝がセットになっている集落であるということもできますね。

写真4
【4】見つかった溝

この溝は幅が90cm~116cm、深さが60~92cmであったと記録されています。
ただ、これが環濠集落であるならば、この溝はぐるりと集落の周りをめぐってはずです。この調査は南北方向にたてに長い調査区がいくつもありました。
めぐっているならどこかにこの溝とつながるようなものがあるはずなのですが、残念ながら見つかりませんでした。
「環濠集落」の可能性がある遺跡と述べるにとどめておきます。


   

高地性集落についても少しふれておきましょう。


高竟性集落は、とても稲作には向かないような山頂や丘陵(きゅうりょう)にある弥生時代の集落跡のことをいいます。
基本的には環濠集落と同じように、ほかのムラからおそわれた時に、攻撃(こうげき)を防ぐ目的で立地しているものと考えられています。
これも平塚市内では明確ななにかが見つかっているわけではないです。

写真5
【5】平塚市から大磯町にまたがる高麗山(こまやま)

ですが、高麗山の山頂(さんちょう)付近から弥生時代の土器のかけらが採集されたという報告もあります。
この高麗山を活用した痕跡(こんせき)が多く認められるのはもっと後の時代ですが、
弥生時代から、こうした地形を生かした活用がなされていたのかもしれません。



弥生時代は、「稲作の開始」という大きな出来事がありました。
ただ単に主食が変わったというだけではありません。「米をつくる」にはその知識がある“人”が必要ですし、育つ“土地”も必要です。
そして、河川や気候などの周囲の“環境”も十分でなければ、「米をつくる」ことはできないのです。
そして、ムラの中で中心的な役回りとなり率いていく“人”が現れ、より多く生産するために“土地”を奪い合うようになり、
効率的な生産を目指しより“環境”に手を加えるようになっていきました。
弥生時代の人々がすべて米を主食にしていたわけではありませんが、それまでの生活とは一変した様子を、
環濠集落や高地性集落の跡は教えてくれるのです。