今から約130年ほど前に、向ヶ岡貝塚(むこうがおかかいづか)という遺跡(いせき)でとある土器がみつかります。
それは、今まで発見されていた縄文土器とはちがう特徴(とくちょう)のあるものでした。
この向ヶ岡貝塚があった場所が東京都文京区(とうきょうとぶんきょうく)にある“弥生”というところです。
発見された場所の名前をとって「弥生土器」と名づけられたこの土器は、その後の調査で縄文土器より新しいことが確認され、
縄文時代(じょうもんじだい)に続く「弥生時代」として知られるようになり、九州から東北まで広くみつかるようになりました。
弥生時代になると、新しい形の土器がみられるようになります。代表的なものが【1】のものです。左側は高坏(たかつき)、右側は壺(つぼ)とよばれています。
高坏は主に食べものを盛るためのもの、壺は貯蔵(ちょぞう)するためのものであったのではないかと考えられています。
これら形に似た土器が、縄文時代の終わりごろから少数みつかっていますが、弥生時代になってから主要な土器になったと考えられています。
この他には、甕(かめ:縄文土器では「深鉢(ふかばち)」とよばれることも多い)や、まつりごとなどで特殊な使われ方をしたと思われる器台(きだい)などがあります。
弥生土器が最初につくられたと考えられている地域は現在の福岡県や佐賀県などの九州北部だと考えられています。
発見された土器の中で壺が3割ほどみつかり、甕は縄文土器の文様に似たものでありながら、
今でもお隣の国である朝鮮半島で使われていた土器の手法でつくられていることがわかっています。
九州北部でこうした最初の弥生土器がつくられ始めたころ、ほかの地域では縄文土器をまだ使っていました。
新しく出現した弥生土器は、東北地方まで急速に伝わっていったと考えられています。
さて教科書をみてみると、弥生土器の特徴に「うすくてかたい」ということがよく書かれています。
わたしも高校生まで「歴史」の授業を受けてきましたが、当時はどうもいまいちわかりませんでした。
というのも、遠足などで博物館に行き、土器を見ることがそれまでに何度かありましたが、どれを見ても同じに見えてしまうのです。
ということで、縄文土器と弥生土器の厚(あつ)さをはかってみることにしました。“かたさ”ははかる道具がないので…。
まずは縄文土器の厚さをはかってみます。用意したのは縄文時代の終わりごろの土器のかけらです。
できるだけ、弥生時代が始まるとされる時期に近いものをと思って【2】を用意しました。
といっても、最大でおよそ1000年か2000年ほど弥生時代とは差がありますが…。弥生時代直前の縄文土器は博物館には見当たりませんでした。
新町遺跡は平塚市新町、現在の第一三共の付近にある遺跡です。ここの調査を行ったときに市内で一番古いと思われる弥生土器のかけらがみつかりました。
じつはこの時の調査では、ほかの弥生時代の建物の跡や土器などはみつかっていません。ですので、弥生時代当時のこの遺跡の状況(じょうきょう)はくわしく分かりません。
それまで、こうした弥生時代中頃の土器はとなりの秦野(はだの)市や南足柄(みなみあしがら)市など、山地でみつかることが県内では一般的(いっぱんてき)でした。
新町遺跡は山や丘陵地より低いところ(低地)でみつかったため、とても興味深い発見となりました。