縄文(じょうもん)とは、いったいどのような意味なのでしょうか。
「縄」とは「なわ」という意味ですね。「文」はもじやことばという意味のほかに、「もよう」という意味もあります。
つまり「縄文」とは、「なわのもよう」ということになりますね。では、いったい何に「なわのもよう」がえがかれていたのでしょうか。
家のかべ?着ている服?もしかしたらヘアスタイル…?
正解は「土器(どき)」というものです。この土器に“なわのもよう”がつけられたのです。
「土器」とは、ねん土を材料に作られる焼き物のことです。
いろんな時代で、さまざまなかたちのものが作られていますが、縄文時代の土器は、今でいうところのお鍋のようなものが多く、
食べものを「煮る(にる)」ために作られた道具がいっぱんてきです。こうした土器は、平塚市でもたくさん見つかっています。
上の【写真1】は、平塚市の日向岡や公所、根坂間にある「日向岡(ひなたおか)遺跡」から見つかったとされている土器のかけらです。
縄文時代は、およそ1万年以上も前から数千年間以上もつづいた時代です(始まった・終わった年代はさまざまな説があります)。
その間、ずっと土器に「なわのもよう」だけをつけつづけていたのでしょうか。
例えばみなさんは、同じあそびをずっとできますか?本当に好きならずっとできるでしょうが、いつかは他のあそびをはじめると思います。
今でもあそびや食べ物などに「はやり」がありますが、縄文時代に生きた人たちの間にも「はやり」があったのです。
上の【写真3】を見てください。先ほど紹介した「なわのもよう」がついた土器のかけらとはちがうもようをしていますよね。
太いまっすぐな線があるもの。細かい線がたくさんあるもの。丸や三角のでっぱりがあるものもまで。
これらもみんな「縄文土器」のなかまたちです。なわのもようがなくても「縄文土器」ちょっとむずかしいですね。
【写真3】の土器も「日向岡遺跡」から見つかったとされています。
縄文土器のもようは、縄文時代の時期によってもちがいますし、場所によってもちがいます。
こうした“ちがい”から、遺跡(いせき)の年代や、はなれた土地とのかかわりなどを考えることができます。
日向岡(ひなたおか)遺跡は、今の旭陵中学校付近にある遺跡です。ここでは縄文時代を生きた人々の跡(あと)が見つかっています。
そのなかでも、特に4000~5000年ほど前(縄文時代中期)のものがよく発見されています。
平塚市内にもこのような遺跡(いせき)はたくさん見つかっています。
「ひらつかわくわくマップ」の「埋蔵文化財(まいぞうぶんかざい)」をクリックすると、市内の遺跡がどこにあるのか、見ることができます。