現在市街地となっているこの地域は、かつての自然の地形が全くといって残っていません。唯一残るのは平塚八幡宮の森だけです。明治41年の地形図や昭和47年の地図を見ると、かつての自然の姿を知ることができます。東海道に沿って発達する明治末の平塚の町並みは、砂州列の中央部に位置しています。この北側には現在の国道1号線の位置に馬入へ流れる明石川が流れ、八幡宮の砂丘との間に湿地が東西に広がっていたことがわかります。八幡宮の北側にもさらに細長く延びる湿地が東西に連なっています。この湿地は、現在の市役所や江陽中学校校庭の位置にあたります。博物館から平塚八幡宮に向かうと江陽中学校の校舎の横で坂道となり、博物館の立つ高さより一段と低くなります。この低い面が市役所の立つ高さでかつて湿地であったところです。江陽中学校の校舎と校庭の高さが異なるのはこうした地形をうまく生かしているのです。この砂州と堤間凹地の境は、現在でも市役所東の天沼等で見ることができます。 一方、平塚八幡宮は昭和47年の地形図では標高13mあり、明らかに砂丘と考えられます。この砂丘列の続きは市街地化により平坦化され現在ではみる影もありません。 | |
空からみた平塚八幡宮付近 | |
天沼(市役所東)の砂州(道路左)と凹地(右) (高さが異なる) | |
明治41年発行1/20000大磯驛(東西に連なる2つの低地に注目) | |
| |
|