平塚の地形地質 (4.平塚・平野の地形)

片岡以南の江戸期以降の河道と河川改修

最終更新 1998年5月

江戸期以降、人々は金目川の水を利用し洪水と闘いながら生活をしてきました。現在でも用水路や控え土手からそうした様子を知ることができます。洪水から集落を守る控え土手は飯島や纏にまだ残っています。以下に、古文書や旧河道の分布から明らかにされた、江戸期以降の金目川の流路変遷についてみてみましょう(右頁)。 1700年頃の流路:この時期は飯島南方の新幹線北側付近から入野と長持の村境を流れ、長持の下之宮橋北西で鈴川と合流し、そのすぐ南で玉川と合流していました。長持あたりで三川が合流していたわけです。下流域では、国道1号線花水橋上流300m付近より古花 水を通って東海道線鉄橋まで砂州・砂丘地帯を切り込んで蛇行していました。東海道花水橋左岸に大磯町が入り込んでいるのは、この名残です。 1706〜1708年頃の流路:元禄地震後、金目川の河床が1m程高くなり、洪水を繰り返したため、入野で鈴川と合流していた流路を変更し、飯島〜長持間 1.5kmを堀り、南原東雲橋上流で合流させるようにしました。下流では1708年に東海道線上流 300mから東海道線鉄橋付近まで直線的に流路を変更すると共に、1710年には古花水の流路を利用して中原から流れる排水堀を掘ったといわれます。 1721年頃の流路:1707年の宝永山の噴火以降、火山灰降下により河床が高くなり、三川合流付近はたびたび洪水や滞水を繰り返し、特に1712〜1721年の10年間は入野・長持・豊田平等寺・打間木では滞水が甚だしかったといいます。そのため1721年に鈴川と玉川との合流点より下流に玉川新川を1kmにわたり掘り、現在のように平塚大橋下流で金目川が合流するようになりました。

纏の控え土手

金目川の江戸期の流路変遷
(平塚市博物館1977・山崎1987・平塚市1990の歴史事実を基に旧河道の分布から推定) 1:丘陵・台地 2:沖積平野の微高地(砂州砂丘・扇状地・沖積段丘) 3:池 4:Aでは1650年以前の流路 Bでは現流路 Cでは1800年代の流路 5:古い旧河道ないし氾濫流路