巡回展「二宮・大磯・平塚を結ぶ道-東海道-」展示品紹介
*このページは、2001年秋に開催された巡回展「二宮・大磯・平塚を結ぶ道-東海道-」の展示資料を解説したものです。
最終更新:2001年11月3日
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左:慶安2年(1648)「御大名衆帳」(大磯町郷土資料館所蔵)
右:文化8年から14年(1811~17)「御休泊控帳」(大磯町郷土資料館所蔵)
1 「大名衆帳」から「休泊帳」へ
左写真の「御大名衆帳」と右写真の「御休泊控帳」は表題が違っています。しかし、いずれの資料も大磯宿の本陣(小島本陣)を誰が、いつ利用したかを記載した「宿帳」です。
では何故、同じ「宿帳」で表題名が違うのでしょうか。この違いを知るためには、「本陣」の歴史的経緯を少し説明しなければなりません。
本陣は、参勤交代の大・小名、公家、宮門跡、勅使、公用の幕府役人などが、旅の途中に休泊した大旅館をいいます。もともと本陣は、天皇が朝覲行幸などをする際に、その行列の中心である鳳輦(天皇乗御車、輿)を囲む一陣をいいました。それが後に軍陣の中核、総大将のいる本営を意味し、江戸時代には大名などの宿陣のいわれから、転じて道中休泊の中心となる民営の宿舎を「本陣」というようになったといいます。
慶長6年(1601)に伝馬の制が定められた後、東海道では寛永のはじめ頃に各宿駅も整備され「本陣」もしだいに増加し、寛永12年(1635)の参勤交代制の実施以降に一般化しました。正確には前年、3代将軍家光の上洛に際し東海道や美濃路などの宿駅大名宿の亭主が本陣役(本陣職)に任命されてからでした。
本陣役任命の発端は、徳川家康の関東入国以来、諸大名が東海道を通行する際に、家が広く、田畑山林を多く持ち、下男下女を多数召し抱えている者のところに休泊していたことに始まります。それが、やがて往来の増加とともに、定宿のようになり初めは「大名衆宿」といっていました。その後、大名ばかりでなく紀州家や尾州家、日光門主や幕府役人なども休泊するようになり、「大名衆宿」ということが不適当となって、寛永期に「本陣」と唱えるように申し渡されました。しかし、その時に「本陣職」という職分が決まったわけでなく、正式に「本陣」と言い習わされるようになるのは、元禄以降、「本陣」といっていた者の中から、道中奉行によって選ばれ者たちが正式に「本陣職」に就いたのでした。 以上の説明から、本陣は初め「大名衆宿」といわれていたこと。正式に「本陣」といわれるようになるのは、時代も下がって元禄期頃からであることがわかりました。この違いが「宿帳」の表題の違いに現れているのです。
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