東海道の成立

最終更新:2001年11月3日

加藤本陣跡の碑 慶長5年(1600)、徳川家康は関ケ原の合戦に勝利すると、翌慶長6年から本格的に全国の主要交通路の把握とその整備に着手します。まず、最初に手がけたのが東海道です。慶長6年正月、東海道沿いの集落(村)に出された2通の文書「伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)」と「御伝馬之定(さだめ)」は、以後、その集落(村)が宿・宿場として徳川氏により公認されたことを示し、公用の役人をはじめ、幕府が認めた通行者に対し、馬や人足を無賃で提供する義務(伝馬役)を負うことになりました。
 馬や人足を無賃で提供する義務を負った宿は、その義務を負担する代わりに代償として負担する馬数に相当する伝馬屋敷が与えられ、地子(じし-領主が賦課する地代=年貢)が免除されます。また、独占的に物資を輸送することや旅人の宿泊が認められました。しかし、地子が免除された屋敷には、屋敷の間口に応じて馬役・歩行役(かちやく)=伝馬役を負担させ、宿が無賃で提供する馬や人足の費用に充てたのでした。
 慶長6年に制度化された伝馬制は、1宿に36匹の伝馬を常備させ、朱印状を持つものだけに馬を提供することが義務つけられたものです。一般に東海道五十三次(宿)といわれますが、慶長6年段階で五十三次(宿)すべてが成立したわけではありません。たとえば、神奈川県下9宿のうち、神奈川宿、保土ヶ谷宿、藤沢宿、平塚宿、大磯宿、小田原宿は慶長6年に宿として成立したのに対し、戸塚宿は慶長9年に宿となり、箱根宿は元和2年(1616)、川崎宿は元和9年にそれぞれ宿に定められています。
 徳川氏は東海道に続いて、慶長7年には中山道を整備します。東海道、中山道はいうまでもなく江戸と京都・大坂を結ぶ主要道です。この時期、西国を完全に手中にしていたわけではない徳川氏にとり、東海道・中山道の両街道は、軍事的にも政治的にも最も重要な道路であったといえます。やがて、徳川氏は全国制覇の過程で次々に他の街道も整備し、後に、東海道・中山道・日光道・奥州道・甲州道を併せて五街道と呼ぶようになりました。
道中絵巻・平塚宿付近 街道の整備には、伝馬制の制定のほか一里塚が設けられ、並木が植えられて交通の利便が計られます。一里塚は日本橋を起点に一里毎に設けられた塚ですが、道標としての役割も果たしていました。また、並木は旅人にとって陽光から身を守るものであり、宿と宿の間の町屋が途切れる街道の道路界の代わりとなるものでした。宿の施設には、伝馬を掌る問屋(といや)が設けられ、伝馬に掛かる一切の事務を職掌します。また、宿泊施設には本陣・脇本陣・旅籠屋(はたごや)があり、本陣には原則として一般旅人の宿泊は禁止されました。人為的に街道には軍事的な目的から関所が設置され、大河川には架橋しないという障害物を設けはしましたが、箱根山中の石畳、急坂の土留木による階段施設、宿と宿の間の立場の設置など、江戸時代の街道は、交通組織や施設が十分に整備された時代ということができます。その街道の中心が東海道でした。

          図(上)平塚宿加藤本陣跡の碑
          図(下)江戸から長崎までの道中絵巻にある平塚宿付近


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