平塚の歴史散歩 (平塚の遺跡)

豪族と古墳 真土大塚山古墳(古墳時代)

06.しんどおおつかやまこふん」

最終更新 1998年5月

 真土字十四ノ域に所在しましたが、現在は消滅しています。平塚砂丘の北から2列目の最高地点、標高約20mに造られています。砂丘に立地した前期古墳として、特異な存在です。調査は昭和11年と35・36年の2回行われ、三角縁四神二獣鏡、変形四獣鏡、巴形銅器、銅鏃、鉄剣、鉄斧、鉄刀、鑓鉋、玉類、土器、人骨などが出土しました。
 古墳の形態は円墳説、前方後円説や前方後方墳説がありますが、よく分かっていないのが現状です。最近の研究では4世紀後半に築造され、サガミの国の中にあっては最古の古墳と考えられています。
 三角縁四神四獣鏡(径22.1cm)には「陳是作鏡甚大好、上有王父母、左倉龍右白虎、宜遠道相保」と24文字の吉祥句の言葉が刻まれています。平塚にきた最初の文字かと思います。これと同じ鏡が京都府の椿井大塚山古墳から1面、岡山県の備前車塚古墳から2面、兵庫県の権現山51号墳から1面の4枚が確認されています。
 椿井大塚山古墳は三角縁神獣鏡を33面を出土した前期古墳で、大和政権の中枢を握った人物の墓と理解されています。その大和政権とサガミの真土大塚山古墳との関わりが指摘されています。具体的には分かっていませんが、少なくとも、最高級品であった三角縁神獣鏡を保持した真土大塚山古墳の被葬者は、何らかのつながりで大和政権と接触があったために入手することができたものと考えられます。その背景には、東国の毛国(現在の群馬・栃木県)と総国(現在の千葉県)を制圧するための前進基地(情報基地)としての役割がサガミの国に課され、その見返りとして鏡が与えられたのではと考えています。 いずれにしても、被葬者は相模川流域を統括するような人物で、後の相武の国造につながるような在地の大豪族と考えられます。

当時の真土大塚山古墳

三角縁四神四獣鏡(径22.1cm)

変形四獣鏡

銅鏃