昔のお祭りは青年達が大活躍しました。芝居師との交渉、神楽殿の設営、ムシロ集め、おにぎりとお煮染め集め、ヨミヤは夜通し太鼓を叩き、本祭りは夜中まで神輿を担いでと、準備から後片付けまで一週間ぐらいお祭りに係りっきりだったそうです。一年間のエネルギーをすべてお祭りに注ぎ込んだかのようでした。戦争が激しくなるとお祭りは自粛されますが、戦後に落ち着きを取り戻すと、また盛大になりました。ところが昭和30年代後半から、お祭りは急速に衰退していきます。勤め人の増加、青年団組織の解体、娯楽の多様化など理由は様々ですが、太鼓も叩かなくなってしまったのです。 |
芝居 かつて田舎芝居や歌舞伎、神楽はお祭りの大きな楽しみだった。大神寄木神社の歌舞伎は相模の歌舞伎といわれ、有名な役者が出演するので近郷近在から人が詰めかけ、翌明け方まで演じられた。芝居の役者を芝居師(しばやし)とよぶ。戦前、平塚の祭りに呼ばれた主な芝居師は、平塚の豆八、厚木の柿之助と源五郎、茅ヶ崎円蔵の役者などだった。戦中戦後は素人芝居が流行した。役者に稽古を付けてもらい、衣装を借りて演じた。昭和30年頃は映画会なども催したが、テレビの普及で急速に廃れていった。 役者の折衝は一幕いくらで青年団が行い、牛車で役者の衣装や道具を運んだ。丸太を組んで神楽殿を設営し、各戸からムシロを集めて敷き詰めた。お握りとお煮染めを集めて麹蓋に乗せ、役者や太鼓付き合いをしている近隣の青年たちに振る舞った。幕間に役者が化粧を落とすための風呂桶を神社へ担ぎ上げた。風呂桶はムシロで囲ってあり、青年団の下っ端が「おい今、娘さんが風呂に入ったぞ」と言われ、ムシロをのぞいて見ると、お婆さんが風呂に入っていたなんて話もよく聞く。 |
田村八坂神社の神輿渡御 昭和13年 八坂神社提供 入野八坂神社の神輿と青年 昭和29年4月 江原一男氏寄贈 土屋惣領分の青年が演じた国定恵治 昭和21年4月12日 古正タミ子氏提供 城所貴船神社の太鼓櫓と青年 貴船神社提供 |