平塚のお祭り −その伝統と創造− (I)

 懐古録!! 再び華やかき夢をと!

平成17年夏期特別展図録 平成17年7月発行

 大島の山車を動かす
 達磨を創って乗せた、見事だった。                     清田 勇
 昭和24年4月のお祭りである、○○年間の沈黙から山車が立ち上がり、動いた、走った、村中を回った。
 立派な骨組みの山車が神楽殿に仕舞われていた。お祭りの際、出し入れされるだけの無用の長物、太鼓を乗せた姿を見たことは無かった。
 昭和23年4月、三之宮神社のお祭り、その見事な山車3基に心うたれた、青年団(大島支部)入団2年目の事だった。翌日、父、一郎に飾り着付けの人形について問うた、大島ではその昔達磨さんが乗せられていたような話を聞かされた。長老の人達にも聞いた、「そのような言い伝えがある」ということであった。ならば大達磨を造って乗せて村中を華々しく賑やかに回ってみたいと考えた。
 翌昭和24年に伝統の中興、達磨の山車を曳き出すことの了承と決定にこぎつけた、一任された。どういう姿にするかを考えた、昔の達磨人形は大きくても3尺角(1立法メートル)程度だったに違いない、でも今造りたい達磨は山車全体を覆う大きさにしたい、夜は電気をつけて真っ赤に灯したいと言った。皆は途方もないことだと笑った。
 形と造り安さ、重さ、耐久性から竹細工だと考えた。西豊田に中戸川角三という腕利きの籠屋があった、故磯村奈夫君の親戚筋だった、2人で豊田村に行きこれを依頼した。だが前代未聞の大きさである上、設計図もなしの注文である。角三氏は数日間煩悶の後に漸く引き受けてくれた。
 平間から選りすぐりの竹を購入しイメージに頼って角ちゃんは編み始めた。その頃電気は限られた所にしか無かった。私の家の土間で日夜編み続けた。角三氏は両足が不自由な方だった、両手が両足の分まで動き働いた、私の家に泊まり込みでの仕事だった。夜中には神社にその手を運んで人知れずの成就祈願を何回もされたと後に伺った。
完成まで何昼夜だったのか記憶が無い。山車に乗せた状態で地上5メートル程度と相談していたので、安定性と同時に樹木や電柱、電線を回避出来る仕組みが課題だった。昔の道路は狭い上に小枝が覆い、電線は低く張り巡らされていた、その対応にも角三氏は挑戦を重ねてこれを制してくれた。
 七重八重と紙を貼って目鼻をつけて髭を付けた、真っ赤に塗った大達磨が山車の上に立派に乗った。永い伝統と多くの氏子を持った三之宮神社の三体と比べれば見劣っても仕方がない、でも僅か3ケ月で昔を再現できたその喜びは代えようも無かった、胸を張った、皆で喜び合った。村中が沸き立って歓迎してくれた。
 戦後の復興期に煌然と輝いたプロジェクトだったと半世紀を過ぎた今、振り返っている。
 写真の中には青年団員は5〜6人しかいない。他の約20名の人達は櫓の飾り付けや太鼓締めという準備に携わっていた。
 動いた山車、ユーモラスの中にも毅然とした達磨の顔、それを賞賛し喜んでくれた年輩の方々の若き日の面影。そして曳き手の子供達は。還暦を過ぎた今、50余年の昔をどう見てくれるか。
 この山車を動かすのには、引っ張る人、梶を切る人、木の枝、電線を除ける役の人、太鼓を叩く人等々35人以上が必要。この時代は余裕があった。でも人手が揃わなくなる予測は出来なかった。

 大島例大祭 昭和24年の例大祭の宵宮4月17日 初陣の雄姿 飾り付けた山車の記念撮影


ハチハライの前 昭和24年4月19日


昭和27年の山車


祭りのあと
 祭典の翌日、4柄もの太鼓櫓を片づけ終わったところ。精根使い果たした3日目、ハチハライの日、その疲れた姿と顔。美空ひばりの「お祭りマンボ」の終曲、哀愁こめて唄っていた
「お祭りすんて日か暮れて 冷たい風の吹く夜は 家を焼かれたおじさんと へそくりとられたおばさんの ほんにせつないためいきはかり いくら泣いても返らない いくら泣いてもあとの祭りよ」
そのままの風景というか‥ 

祭りのあと 昭和25年4月19日(大島)


(この頁の写真と文章は、清田勇氏に提供していたたきました)