平塚のお祭り −その伝統と創造− (I)

 屋台と山車

平成17年夏期特別展図録 平成17年7月発行

 現在、市内で屋台や山車を曳いているのは、馬入と中原である。中原は5台の山車が神輿の後を巡行する。田村は境内に3台の屋台を並べる。横宿は江戸時代に明王太郎が作ったと伝え、下町も江戸時代、上町は明治21年製作の屋台である。
 かつては他にも屋台や山車を曳く祭が多かった。須賀は豪華な屋台が5台あり空襲で焼失した。平塚八幡宮は八幡大門の山車が境内に保管されている。平塚の春日神社は柳町、東仲町、西仲町に屋台があったが明治18年の大火で焼失。真土は明治まで山車を曳いた。豊田は6〜7台の山車があり、昭和30年代後半まで曳いた。大神は屋台があったが震災で潰れた。大島は昭和35年頃まで山車を曳いた。下島は戦後に買った中古の山車が現存している。城所は戦後10年ほど牛車の山車を曳いた。岡崎は矢崎が戦前まで山車を曳いた。長持は大正初期まで山車を曳いた。広川は戦前まで山車を曳いた。片岡の山車は昭和35年頃に火災で焼失し、焼け残った彫り物を拝殿に飾っている。千須谷も山車を曳いた。南金目は老朽化した4台の山車が現存している。北金目は昭和30年代まで3台の山車を曳いた。真田は明治期に山車を曳いた。上吉沢もずっと昔は山車があった。根坂間は昭和30年頃まで山車を曳き、出縄は大正初期まで山車を曳き、徳延も山車があり、河内も大正時代は山車を曳いた。
 屋台と呼ぶのは須賀、馬入、平塚、田村、大神で、その他は山車と呼んだ。屋台は豪華な造りで、舞台と楽屋に分かれている。田村では屋台前方に踊り手が乗り、後方で太鼓を叩いた。山車は屋台よりひとまわり小さく、楽屋がついていない。
 昭和初め頃から交通事情の変化、電線の敷設などで、巡行が困難になった。戦後は山車の老朽化や曳き手不足も手伝い、昭和40年には山車を曳く祭は無くなった。その後、馬入と中原は修復して巡行が復活した。山車の無い所は、居囃子といって境内に櫓を組み、太鼓を並べて叩いた。戦前から戦後にかけては居囃子が多かったのである。
 昭和50年頃に太鼓が復活すると、各神社はトラックに山車をのせて回るようになった。中原ではこれを本山車と区別して車山車と呼ぶ。市域ではトラック山車でも普通に山車と呼ぶ所が多く、太鼓車、花車といった呼び方もある。豊田8台の山車は車山車だが、本格的な造りで装飾も凝っている。豊田小嶺と北金目の中久保や大久保は昔の山車をトラックに乗せているという。現在、山車に乗って囃子太鼓を叩かないのは長持だけで、数年前には回っていたが道路事情の悪化でやめた。
 馬入と中原の屋台と山車は稀少な存在である。車山車は叩き手が後退しながら演奏し、綱を引く山車は前進して演奏する。このことは、見る側にも演じる側にも多少の心理的影響を及ぼすのではないだろうか。