平塚のお祭り −その伝統と創造− (I)

 囃子太鼓の伝授

平成17年夏期特別展図録 平成17年7月発行

 明治3年生まれの真土の山口長五郎さんは笛の名人で、江戸の住人「松之市」が平塚宿に逗留して祭囃子を伝え、これが平塚囃子として近郷近在に広められたとの話しをよくしていたという。豊田ばやしは、万治年間より始まり、文久初年に創技されたと伝えている。
 近代以降、多くの近隣に最も多く太鼓を教えたのは城所で、大句、馬渡、矢崎、西海地、池端、高部屋、大島、下島、小稲葉、平間、小鍋島と11か村に上る。明治時代から昭和30年代中頃まで、城所は中郡北部の囃子太鼓の中心的存在であったといえる。入野も豊田平等寺など近隣の数カ所へ太鼓を教えた。南原の太鼓は徳延系統という。豊田西町は大昔に寺田縄から習ったといい、戦後に立野町、豊原町、桃浜町、寺田縄へ太鼓を教えた。
 戦後によそから太鼓を習って復活した所や新しく始めた所を挙げると、八幡は明治時代に太鼓があったが、長らく途絶え、昭和53年に四之宮から習って再開した。須賀は空襲で屋台が焼失して戦後は途切れ、昭和50年代に二宮町中里から習って復活した。上平塚も空襲で太鼓が焼失して途絶え、昭和55年に吉沢の人から習って再開した。中原は昔から太鼓が盛んだが、上宿と御殿は近年四之宮から習っている。上惣領は太鼓が無かったが昭和50年代に黒岩から来た人が始めた。高根は同50年代に河内から習った。横内も囃子太鼓が無かったが同50年代から始めた。