戦前の状況を振り返ると、太鼓を叩く所は、たいてい競り合いをしていた。最大規模は豊田、城所、岡崎の七カラで、須賀、中原、大島、土屋は五カラ、上吉沢は四カラで競った。
豊田は昭和50年代に簀子橋が西町から独立して山車が8台になる前は7台であった。太鼓付き合いといって、互いのお祭りに呼び合う近隣の太鼓連が来て、一幕を叩いた。また方々から個人的に太鼓の腕自慢が集まった。根坂間のある人は、お金を払って叩かせてもらったという。このお金を豊田では革を買う資金にした。そうして夢中になって叩いた翌朝は、腕が重くてトイレで尻が拭けないようだったという。 城所は今は地元の二カラで競り太鼓をするだけだが、戦前は七カラで競った。同じ七カラでも豊田と異なるのは、豊田は豊八幡神社の氏子が七ブラクに分かれて競ったのに対し、城所は貴船神社の氏子は一カラで、近隣の太鼓連が太鼓持参で集まり、櫓に七カラを並べたのである。七カラの内訳は、年によって変動したが、城島の大島、下島、岡崎の大句、馬渡、矢崎、西海地、伊勢原の大竹、平間、池端、高部屋、小稲葉などと付き合っていた。相手先の祭りにも太鼓持参で出かけたので、年間7回も競り太鼓をしていたことになる。 かつてはこのように太鼓持参で叩きに行くことが多く、空身で行くのは豊田や中原や岡崎など、氏子だけで複数組の太鼓連が集まる祭りであった。個人的に叩きに行くときはどの祭りも空身で行った。 岡崎神社は大句と馬渡が伊勢原市へ分離する以前は、西海地、矢崎、大畑、入山瀬、別北の七カラで競った。岡崎は矢崎だけが山車を曳き、他は境内の櫓で叩いた。櫓を非常に高く組んだので、矢崎は山車の下に餅つき臼を二つ重ねて持ち上げ高さを揃えたという。山車は二間梯子で乗り降りするようだったという。 豊田も昭和初期には山車を持たないブラクがあったが、岡崎とは逆に、櫓を臼にのせて持ち上げ、山車の高さに合わせた。高い方が音が響くのである。 その他の各神社も近隣の太鼓連を呼び合って競り合いをした。たとえば、広川・片岡・公所や、根坂間・出縄・万田は互いのお祭りに太鼓を持参して鳴りを競った。どこでもこうして一カラではなく数カラで競り合いをしたので、革を強く張る伝統が根付いたといえよう。今は神輿会の交流が盛んだが、かつては太鼓の付き合いが頻繁にあり、好きな者は三ノ宮比々多神社や国府祭までも叩きに行った。 今も太鼓の交流は見られる。先述した前鳥神社や真土神社の他、豊田本宿と中原中宿、豊田西町と真土・中原上宿・寺田縄、数十年ぶりに今年復活した下山下と上山下、土屋における宵宮の太鼓連のお付き合いなどである。助っ人的に呼ばれたり、個人的に叩きに出かけるケースも多い。とくに豊田と中原は熱心な若い人が方々のお祭りへ叩きに行っている。 |