鎌倉時代、田村には豪族三浦義村の山荘である田村の館があった。義村は源実朝の死後、後継将軍に藤原頼経の擁立を支持した。その関係から将軍頼経はしばしば田村の館に来遊した。その折りに、京都の楽人を伴って遊興し、楽人が土地の里太鼓を編曲したのが今日の田村ばやしの源流といわれている。
編成は大太鼓1、締太鼓2、笛1、鉦1である。曲目は、「屋台・宮昇殿」「昇殿・神田丸」「唐楽鎌倉・仕丁舞・印場」の七曲と三つの組み合わせからなり、いずれも笛のリードで曲が変化していく。境内では三台の屋台で演奏し、神輿の先導には車山車で演奏する。 「屋台」は巡行中や境内で最も多く演奏する曲である。締太鼓が「ぶっつけ」という序奏部を打ち、大太鼓を打って地に入り、皮違い、乱拍子、きざみ、という三つの変化部を持っている。途中に「宮昇殿」が入り、再び「屋台」に戻る。「仕丁舞」には、大間という変化部があり、二台の締太鼓が異なるリズムを刻む。「屋台」から「仕丁舞」までが昔から田村で伝承している曲で、通して演奏すると約20分かかる。 「印場」は、少女がおかめの面を被って踊る。「印場」の曲と踊りは、昭和51年に市文化財に指定された時に厚木市の垣澤社中から教わったものだが、田村にも昭和30年代までは、ハチアライで酔っぱらうとおかめとひょっとこの面をかぶり、囃子に合わせて踊った。 |
かつてハチアライでかぶったお面 |