平塚のお祭り −その伝統と創造− (I)

 入野八坂神社神輿

平成17年夏期特別展図録 平成17年7月発行

 「平塚市神輿・屋台調査」(2003)によれば市内には、江戸時代に製作された神輿が少なくとも8基確認されている。製作年代は、神輿新造発注の際に取り交わした文書、神輿内部の墨書き、伝承などを手がかりとする。8基の他にも、伝承や構造面から江戸時代に建造した可能性のある神輿が数基ある。
 文書や墨書などで最も古い年代が記されているのは、入野八坂神社の神輿で、神輿の内部に「文化九年壬申三月吉日再興之 西岡田村 東都白銀町三丁目 東叡山御用 大仏師 森光雲」などの墨書がある。このことから、この神輿は、文化9年に江戸白銀町の仏師森光雲により再興された西岡田(現・寒川町岡田)の神輿だったことが分かる。
 西岡田の八坂神社には、この神輿の他に、天保15年に寒川神社から払い下げられた神輿があった。これは、天保9年の国府祭の還幸時に馬入の若衆と喧嘩し、相模川に流された神輿とされる。馬入の若衆16人は打ち首の刑に処せられるところだったが、代官江川太郎左衛門の計らいで、代わりに丁髷を切り落として罪を免れた。この丁髷を埋めた所が蓮光寺の有名な丁髷塚である。
 馬入川に流された寒川神輿は、茅ヶ崎市南湖の浜で鈴木孫七氏に引き上げられ、以来、毎年お礼に南湖へ浜降りするようになったという。この話は浜降祭の発祥説のひとつにもなっている。鈴木家は現在も浜降祭で南湖の御旅所神主を務めている。
 西岡田八坂神社では明治26年頃から2基の神輿の修復を始めた。伝承によれば、八坂神社に元々あった神輿、寒川神輿、神輿職人が持参した神輿との3基の神輿の良い部分を一つにして八坂神社の神輿(現在の菅谷神社神輿)を作ったという。残る二基も部品を買い足して作り直し、一基は大曲の十二神社へ売り、大曲からさらに南湖中町の八雲神社へ売って現存している。もう一基の売却先が入野で、神輿内部の柱に「明治廿七年七月廿八日」の墨書もあって、明治27年に修復されたと考えられている。入野へは明治29年頃に売却されたという。
 神輿の外観は、一般の相州神輿と異なる点がいくつかある。台輪に格狭間を彫って朱を施し、四隅に泥摺と呼ぶ脚が付く神輿は、県内では寒川神社近辺に数機しかなく、平塚市では他に無い。枡組も独特の組み方をしているという。素木の彫刻も見事である。
 入野は、『新編相模國風土記稿』に「祭禮六月十四日 神輿を金目川の邊に渡す」とあるように、江戸時代から神輿を担いでいた。現神輿を担いだのは昭和29年までで、今は年により車に載せて渡御している。