平塚・石仏めぐり-旧市内編- (5・旧平塚新宿)

八幡宮の鳥居


平塚八幡宮の社前には青銅製の大烏居があります。この鳥居の左柱には、「新造 時明和二星次乙酉九月吉日」「再建万延元星次庚申八月穀旦」とあり、続いて左右の柱に多くの人名や村名が陰刻されています。この人たちは鳥居再建の発願主と寄進者で、人名・村名は合計で358にも及んでいます。
この青銅大鳥居は、元は東海道本通りから八幡大門に入った所にあったものです。江戸時代末の『新編相模国風土記稿』には、「東海道往環北側に銅鳥居<鶴嶺山と扁す>あり、是より大門にして、百七十年間許入て小橋を渡り又少く行て池あり、反橋石を架す、爰に二王門建り、是を入少許の石段を登て社前に至る、幣殿・拝殿等あり」と記され、大鳥居をくぐってから社前に至るまでの光景がうかがえます。
さて、この大鳥居で注目されるのは、前記のように発願主・寄進者が358にも及んでいることです。八幡宮は旧平塚新宿、八幡村、馬入村3村の鎮守で、この範囲の家々が氏子となっています。発願主・寄進者名は氏子を中心としていますが、これにとどまらず旧大住郡、淘綾郡、高座郡、愛甲郡の村むらに広がり、一部には江戸や八王子、下総国の人もみえています。この中には「秦野煙草商人中」とか、屋号をもつ人々、大工などと職種が記された人などが含まれ、さらに大山の御師の人たちが多数みえています。大鳥居の陰刻からは信仰圏など八幡宮の信仰の一端がうかがえるわけです。
この大鳥居に大山御師がおおぜい登場する理由は、定かではありませんが、大山と八幡宮は別当の等覚院を通じて深い関係があります。大山は江戸時代の初めに徳川家康によって大改革が行われましたが、この時に大山を統括する八大坊の学頭に任ぜられたのが等覚院の中興開祖となった実雄法印です。
なお、大鳥居には2人の鋳物師が刻され、この人によって鋳造陰刻されたと考えられます。明和2年の年号に続いて「江戸神田主(ママ)鋳物師太田近江大掾藤原正次」とあり、万延元年に続いて「平塚宿鋳物師富塚作次良彫之」とあります。つまり、江戸神田の鋳物師によって鋳造され、後に平塚の鋳物師が陰刻したと推察できます。
八幡宮の大祭は8月15日で、この日には神輿が海岸まで浜降りを行います。5月5日のコウノマチ(国府祭)にも神輿が大磯の神揃山まで渡御する他、多彩な神事が行われています。

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