平塚・石仏めぐり-旧市内編- (5・旧平塚新宿)

旧平塚新宿


旧平塚新宿というのは、現在の浅間町、明石町、紅谷町、宝町、宮松町、宮の前と追分・立野町・見附町・錦町・八重咲町・代官町の一部などの範囲です。ここは新宿という名称からもうかがえるように、北隣の旧八幡村から分村した所で、元は八幡新宿とか新宿村といわれていました。
宿内を東海道が東西に通り、ここから厚木道(八王子道)が北へ伸び、八幡大門通りは大山道・曽屋道へつながりました。大山道と曽屋道は現在の追分付近で分岐し、伊勢原方面への道が大山道、南原方面への道が曽屋道となっていました。一方、八幡大門から海辺へと続く道は浜大門と呼ばれました。江戸時代末の戸数は119戸(うち24軒は平塚宿内にあり二十四軒町という)で、古くからの集落は東海道沿いと八幡大門沿いにあり、八幡大門付近を境に東町と西町の2つの町内に分かれていました。
明治20年に現在のJR東海道線が開通し、この地区に平塚駅が出来てからは様相が一変し、商店や旅館、飲食店などができて繁華街となり、平塚の経済や交通の中心地となりました。鉄道が通ってからは大山詣りなども平塚が玄関口となり、大山導者は八幡大門を通り追分を経て大山へ向かったわけです。
この地区の社寺としては、平塚八幡宮、山の神社、恵比寿神社、晴雲寺(浄土宗)、光円寺(真言宗)、豊川寺(曹洞宗)、大光不動堂がありますが、かつてはこの他に八幡宮の別当を務めた等覚院(鶴嶺山成事智寺、真言宗)が、現在の八幡大門と不動通りの間のNTT付近にありました。また、現在の大光不動堂は、もとは大光院という当山修験の寺で宮の前の東雲公園付近にあり、大きな敷地をもっていたといわれています。晴雲寺や光円寺は、現在は立野町にありますが、晴雲寺は元は今の平塚駅前の第一勧銀付近にあり、光円寺は等覚院の近くにありました。

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