平塚・石仏めぐり-旧市内編- (4・旧平塚宿)

庚申塔


平塚本宿地区には須賀地区と並び、多くの庚申塔があります。大半は社寺の境内に建立されていますが、表のように15基もが確認できています。表はこの地区の庚申塔を年代の古い順に並べたもので、
年代が刻まれているものでは上平塚の八雲神社境内の庚申塔がもっとも古く、万治三年(1660)の年号をもっています。この塔は板碑型といい、塔の上端は山形をし、その下にはΩ形の枠線が2本彫られています。板碑型石塔は、形態的には鎌倉・室町時代に建立された板碑の流れを汲むもので、この型の石塔があったらまず江戸時代初期のものと考えてさしつかえありません。
八雲神社境内の庚申塔は、「万治三子天 正月大吉日 相州大住郡上平塚之村(梵字ウーン)奉待庚申供養二世安楽所」という銘分をもち、下段には三猿が彫られています。この塔は、年号をもつ庚申塔の中では平塚本宿だけでなく、市内でもっとも古いものと思われます。年号でいえば、万治(1658〜1660)の次の寛文(1661〜1672)期の庚申塔は市内各地にありますが、万治の塔はこれだけで、貴重な地域資料といえます。
この塔の特徴をいくつかあげますと、まず前記のように板碑型であること、下段に彫られている三猿が立像であること、銘文に青面金剛を意味するウーンがあり、庚申供養と明確に刻まれていること、上平塚は当時、行政的には平塚宿の一集落でしたが「上平塚之村」とあるなどがあげられます。庚申塔の三猿は、通常は座った形に彫られ、立像の三猿はめずらしい例といえます。また、庚申塔に青面金剛像が一般に登場するようになるのは元禄期以降ですが、その下地は梵字で青面金剛が彫られるなど、元禄以前からあるわけです。「上平塚之村」というのは、ここだけで鎮守の八雲神社をまつるなど独自性が強かったことをしめしています。
2番目の薬師院の庚申塔は、元禄3年(1690)のもので、角柱の3面に三猿があり、蓮が彫られています。「奉供養庚申」とあり、片倉五兵衛ほか5人の名が苗字入りで刻まれています。建立者は一般庶民と考えられ、庶民にも苗字があったのがわかります。
3の平塚五丁目の庚申塔は板碑型、5の八雲神社境内の燈籠型の庚申塔は形態的に例の少ないものといえます。12の北野天神社の庚申塔は石祠でこれも作例が少ないものです。摩滅がはなはだしいのですが、石祠の左右裏に三猿が彫られ、庚申供養のためのものといえます。
3基の庚申塔が並んでいるのは宝善院境内です。それぞれ彫りの良いもので、青面金剛と三猿などが見られます。元禄期ころからはこのような庚申塔の数が増えていきます。ただ、青面金剛といっても、この3基は像の姿・形が違っているのがわかります。小さい写真ですが、頭の形、手に持つもの、身に付ける衣類など比較してください。また、このうちの中央の元禄10年(1697)の庚申塔には、「本願主」として和嶋屋、蔦屋、伊丹屋、松葉屋、小松屋、姪子屋、久保田屋などの平塚宿の家々の屋号が彫られています。

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