平塚の道祖神 (旧市内)

馬入

最終更新 1998年5月

中堂13-3神明社境内
馬入の鎮守、神明社は区画整理で現在地に移動した昭和40年以前は現八千代町の東海道筋にあった。村は西からカミ、ナカ、シモに三区分され、セエトバライも三ヶ所に分かれて行っていた。 現在は馬入全体が神明社で盛大に行う。道祖神はカミとナカの二ヶ所にあったが、神明社の移動とともに神社前に集められ、小屋内に二基が鎮座している。 14日のドンド焼きは午前中に神明社の総代2名と世話人16名によって道祖神の前に幟が並立し、祭壇が設けられる。幟には「奉納道祖神 昭和四十九年一月十四日 内田正作」とある。 祭壇は豪華にかつカラフルに供えられる。納札所の前に竹を中心にお飾りがうず高く積まれ、前面はだるまの大群によって整然とピラミッド型に覆われる。燃やすのが惜しく感じるくらいだ。 午後2時よりドンド焼き開始で、平塚八幡宮の神主による祝詞奏上に続き、総代と世話人が榊をあげ、最後は全員で柏手を打つ。 総代は紫、世話人は茶色の揃いのハッピを着ており、役員の心意気が感じられる。たくさんの氏子たちが団子をさした竹竿を持って見守る中、神主が点火する。 大正時代までは毎年1月14日に道祖神の周囲に杭を打ち、集めたお飾りで小屋を作って一年間そのままにしておき、翌年のセエトバライの火で燃した。カミの場合は鳶職の人が葺いていた。 屋敷神として祀られる稲荷の祠を一年ごとに初午の日に葺き替えたように、道祖神にあっても毎年小屋を更新するのが古態であったと考えられる。 それが木やトタンなどで祠を常設するようになったのであろう。

カミ・ナカの明治2年(1869)道祖神
カミとナカで祀っていた道祖神である。もとは日本たばこ産業の倉庫付近(八千代町1ー26)にあり、セイノカミドといわれた場所で、カミの西からの入り口に相当していた。 <形>自然石 <材>花崗岩 <材>53×30×22 <銘>(正)道祖神 (左)明治貳年一月造立 世話人杉山松五郎 氏子中


シモの文化4年(1807)道祖神
以前は文化四年と判読できた。シモの道祖神で、「与平次」についてはシモに「安藤よへい」と呼ばれる家があったとのことである。 もとは蓮光寺北側の辻(榎木町7)に地蔵堂とともにあり、ナカとの境にあった。区画整理で神明社に移った当時は遠くなったと不評であった。 <形>自然石 <材>凝灰岩 <寸>72×37×30 <銘>(正)文化{四}年 道祖神 正月日馬入村与平次


神明社にて団子焼き